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将門を祀る!日輪寺(台東区)

 つくばエクスプレスの浅草駅で下車。つくばエクスプレスは初めて乗った。秋葉原からたったの二駅だが、日輪寺へはこれが一番近い。

 日輪寺は時宗の寺。別名は神田山芝崎道場という。道場とは時宗の念仏道場という意味。山号の神田山から分かる通り、神田明神とは縁が深い。
 最初は芝崎村にあったという。今の千代田区大手町の、将門の首塚のあるあたりだ。了円法師によって開基されたといい、最初は天台宗だった。

 平将門の乱後、誰の手によるものか芝崎村に将門の首を埋めたという塚が作られた。鎌倉時代後期になると塚は荒廃し、付近の村人は疫病に苦しめられ、これを将門公の祟りではと恐れていた。
 そこへ時宗の他阿上人が来て、将門に蓮阿弥陀仏の法号を贈って法要を行った。そして塚に蓮阿弥陀仏を刻んだ板碑を置いたところ、ようやく祟りは治まったという。徳治二年[1307]のことだ。

本堂

 他阿上人(正しくは他阿弥陀仏)は本諱を真教上人といい、遊行上人二世である。時宗の開祖の一遍上人の弟子で、師と共に諸国を遊行し、師が入滅したあといったん解散した教団を再結成した。

 他阿真教上人は塚の近くの日輪寺を時宗に改宗し、念仏道場とした。また、傍にあった神社に将門の霊を合祀して神田明神としたという。
 この傍にあった神社とは、元々地元の漁師に信仰されていた安房神社ではないかと言われている。安房神社は千葉の安房に由来している。芝崎は日比谷入江の最奥にあり、漁民の棲む村だったのだろう。

 江戸時代になると寺は幾度か移転をして、最終的にここに落ち着いたのは明暦三年[1657]の明暦の大火後のことである。
 つまり、元々一か所にあった首塚、神田明神、日輪寺は江戸時代の初期に三カ所に分離されたのだった。

 しかし、それで縁が切れたということはなかった。日輪寺は神田明神の別当寺だからである。
 二月二十四日の将門の祥月命日には日輪寺で法要が営まれ、その際には神田明神からも神職が参列するというし、神田祭では神輿が出発する前に日輪寺の僧侶が読経し、将門の神輿が首塚に渡御する。
 また、住職が交代する際には神田明神へ挨拶があったという。

 別当という役割がなくなった現在でも、将門公法要に神田神社の神職が出席しているし、神田祭には住職が出向いているそうだ。

 将門の祟りと日輪寺の関りといえば、昭和になってからの出来事がある。

 大正十二年[1923]の関東大震災で塚の一部が崩壊した。建物に損害を受けた大蔵省は、当時敷地内にあった首塚の場所に仮庁舎を建てたという。その後、大蔵大臣をはじめとする大蔵省関係者が次々と死傷するということが起こって、これが将門公の祟りではないかという噂がたった。

 ついに昭和三年[1928]、大蔵省を施主とする平将門大法会が日輪寺で執り行われたのだ。仮庁舎が直ちに撤去されたのは言うまでもない。

 その後も昭和五年[1930]落雷で大蔵省などの建物が火災に遭った時にも将門公の慰霊祭が行われた。
 終戦後の昭和二十年[1945]米進駐軍がモータープールを造成しようと、将門塚にブルドーザーが入った際にも事故が起こり、運転手が死亡。塚は「昔の大酋長の墓である」と説明してGHQ(General Headquarters.連合国軍総司令部)も納得してくれた。

施無畏堂

 境内に他阿真教上人真筆を刻んだ石碑がある。

こちらオリジナルとなります

 昭和二年[1927]にこの石碑から拓本が取られ、将門首塚の鎮魂碑が作られた。最初の板碑は大蔵省が壊してしまったからだ。更に戦後、GHQがブルドーザーで三つに折ってしまい(なんてこった!)現在大手町にある板碑は昭和四十五年[1970]に作り直されたものという。(三つに折れた方は修復して、茨城県の神田山延命院にある)


 近所を歩いていたら、日枝神社の境内で餅つきをしていた。

 テントや表札に柴崎町とある。現在は西浅草という町名だが、昭和四十年ごろまでは柴崎町といった。もちろん、芝崎道場が町名の由来なのは間違いない。


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