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於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました⑦

 もう何十年も前の話になりなすが、友人がテレビ時代劇の「水戸黄門」について、「風車の矢七やうっかり八兵衛のようなべらんめぇな話し言葉は、水戸黄門の時代には無かったんだよ」と云ったのをふと思い出しました。その時代には、まだ江戸語(江戸弁)はなかったのだと。ならば、江戸の人間はどういう言葉を話していたのだという問いに、明確な答えはなかったと思います。

 水戸黄門といえば、五代将軍綱吉の時代。元禄時代です。だとすれば、三代将軍家光の時代に大久保彦左衛門の自称一の子分、魚屋の一心太助いっしんたすけが「てやんでぇ、あたぼうよ」などと言うはずがないのです。矢七も一心太助もあくまでフィクション、イメージの江戸時代の人物なのです。

 今回は、初期の江戸の人々の話し言葉についてがテーマです。

 徳川家康が江戸に入る以前、江戸は人口も少なく、歴史から置き去りにされたような場所でした。それが、急激な都市化で人口が爆発的にふえたのです。それも、家康が連れてきた三河駿河の武士だけでなく、全国から城普請の為に人が集まってきました。戦が減って職にあぶれた浪人も集まります。
人が増えればその人々を相手に商売を始めようと商人も集まります。それぞれが出身のお国言葉で話すのですから、コミュニケーションには苦労したことでしょう。
 つまり、共通語というのが無かったのです。

 その点、長く政治の中心だった京や、その近くで大阪語を発展させた大阪の二都市は特有の共通語を持っていました。ですから上方歌舞伎は初期から話し言葉を中心とした芝居を作ることが出来ました。人形浄瑠璃も上方が発祥の地です。
 しかし、江戸には初期の頃共通語が無かったため、文語や武士言葉を工夫して、どちらかといえばセリフより体を使って表現する芝居が主流だったといいます。
 江戸で最初にできた猿若座も、その見世物は猿若舞という舞でした。

江戸図屏風(部分)
日本橋

 そのせいか、江戸初期の話し言葉に関する資料がほとんどないのです。残っているのは文語体の文章ばかりなのです。例えば大久保彦左衛門はまさに於岩さんと同時代の人ですが、その彦左衛門が子孫のために書き残した「三河物語」も話し言葉ではありません。

 武士はその文語体をアレンジした武士言葉を使っていました。
 それでは町人(庶民)はどうしたのでしょう。最初はお国言葉でやり取りしていたでしょう。そのうち、上方言葉を取り入れた原始江戸語を使うようになったらしいのです。やはり上方の言葉が中央語(標準語)として、長い歴史があるからでしょうか。ちょっと、想像できませんね。

 それが、東国特有の訛りがついて、江戸語が完成するのは何と化政時代(十九世紀前半)の頃だそうです。江戸幕府が開かれてから、二百年もたっています。

 これほど時間がかかったのはなぜでしょう。一つには江戸の町づくりの為に集まった人が、圧倒的に男性が多かったためです。女の人口が少ないのですから独身が多く、結果として子孫も残せず、一代限りで死んでゆく人が多かったのです。
 それでも、仕事は多いですから、家をつげない次男、三男といった男性が次々と江戸に流れてきました。その人たちも独身のままというのが珍しくありませんでした。
 三代続けば江戸っ子といいますが、二代も続かないことが多かったのです。こうなると、地方から越してきたお国訛りの男ばかりの町が長いこと続くということになります。
 やがて、江戸の大土木工事も終わって町屋も増えてゆき、女性の人口が増えてきて、漸く江戸特有の言葉が話されるようになったのです。

江戸図屏風(部分)


 しかし、べらんめぇ調のいわゆる下町言葉は、すべての江戸庶民が使っていたわけではありません。これはどちらかといえば下層の庶民の言葉でした。日本橋辺りの大商人は、出身が関西人が多く(伊勢、近江が多い)、本店が関西にあって、江戸はその支店で、言葉も上方弁でした。お店者たなものも上方出身が多かったのです。
 「東海道四谷怪談」でも、序幕冒頭に出てくる柏屋彦兵衛という手代が茶店のお政と会話するシーンでは、彦兵衛が「えらう走って来たさかい、渇きくさるかいの」と上方弁でしゃべります。

 さて、田宮於岩さんはどんな言葉を使っていたでしょうか。初代田宮伊右衛門は三河から移住してきた江戸第一世代でした。親世代は日常では三河弁を使っていたことでしょう。於岩さんはたぶん江戸生まれだと思います。第二世代の二代目伊右衛門、於岩夫妻は日常ではどんな言葉を使っていたでしょう。
 田宮家のように身分の低い御先手組(足軽)の家は、同じ身分の組同心との付き合いが中心で、せいぜいが上役の与力と接するぐらいで、それより上の身分の人と会話をすることはほとんどないと思います。
 家のあった左門殿町は当時は辺鄙な場所ですから、食べ物を売りに来る百姓や商人などと交流することはあっても、それが言葉遣いに影響するとは思えません。
 これは想像ですが、家や近所との付き合いでは三河弁はまだ健在だったのではと思います。武家調の三河弁といいますか。夫は公務の時は上方の中央語に似せた文語調の武士言葉を使っていたことでしょう。妻である於岩さんも目上の人と接するときなどは、日常語とは違う丁寧な言葉を使っていたには違いありませんが、やはり上方言葉に近い武家言葉だったのでしょう。

 江戸は新しい町で、しかも全国から人が集まってくる場所でした。互いが使う方言の意味が解らず、喧嘩になることもあったでしょう。江戸初期は他国に人と接するときは、文語や上方語を駆使しコミュニケーションをとっていました。やがて元々地元の言葉であった坂東方言を混ぜながら、少しづつ江戸語が作られていったのです。
 


参考資料

日本語「標準形スタンダード」の歴史 話し言葉・書き言葉・表記  野村剛史
                          講談社選書メチエ
図説 日本語の歴史  今野真二             河出書房新社 
新釈 四谷怪談  小林恭二                集英社新書
東海道四谷怪談 新潮日本古典集成  郡司正勝         新潮社

 

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