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呪術都市江戸⑥

 死後、神として神社に祀られた人は少なくないが、徳川家康は生前から自分が死んだら神になろうと決めていたようである。

家康公の守護神のなり方?

 元和二年[1616]正月二十二日、家康は駿府で病に倒れた。食あたりが原因とされるが、それから三か月ばかり病床にあり、ついに回復することはなかった。
 四月二日、最早先の無いことを悟った家康は、天海、崇伝(金地院)、本田正純を呼び寄せ、遺言を残した。

一両日以前 本上州(正純) 南光坊(天海) 拙老(崇伝) 御前へ被為召 被仰置候ハバ 御体をは久能へ納 御葬礼をハ増上寺にて申付 御位牌をハ三州之大樹寺ニ立 一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて 勧請し候へ 八州之鎮守ニ可被為成との御意候

『本光国師日記』 カッコ内と太字は土偶子による

 四月十六日、長年にわたり近侍してきた榊原照久に家康は次のように命じた。
 「西国を鎮め、その脅威から護るために、我が神像を西に向けて安置せよ」
 東国は徳川譜代の家臣が堅く護っているが、既に豊臣氏は滅びているとはいうものの、西国は心配だというのだ。

 神像とは慶長六年[1601]に家康が還暦の記念に作らせた自らの寿像のことだろうか。現在は芝東照宮に安置されている寿像を、家康は生前駿府城に置き、毎日拝礼していたという。自分で自分の像を拝むって・・・。
 芝東照宮の寿像と、久能山に安置した神像が同一のものか、今回確かめることができなかった。ご存じの方がいらっしゃればご教示願いたい。
 
 慶長六年といえば、関ケ原の戦いの翌年で、家康はまだ征夷大将軍になっていない。もちろん江戸開府前で、大阪の豊臣秀頼も健在なのである。
 そんな時期に既に死後の徳川氏の安泰を考え、分身である神像に念を込めていたとしたら怖すぎるよ、家康。

 また、町奉行彦坂九兵衛光正に愛刀「三池の御刀」を渡して、罪人で試し斬りをするよう命じた。光正が土檀まで心地よく斬れたと報告すると、家康は刀を二、三度打ち振るい、久能山に収めよと命じた。そして翌日更に、神像ときっさきを西に向けて安置せよと指示したという。

 家康はその日(十七日)巳の刻に息を引き取った。
 家康の柩と神像、三池の宝刀はその日のうちに久能山に収められた。雨が降る夜だったという。通夜なし。遷座の式は吉田神道に従って神龍院梵舜が行った。


 さて、久能山に家康を祀るときに一つの議論が起こった。
 議論とは家康の「神号」についてだった。梵舜は吉田家の唱える唯一神道により「大明神」で祀るつもりだった。それに対し天海が「大権現」を主張したのだ。

 権現とは仮の姿(形)で現れるという意味で、例えば仏が仮に神の姿で現れるというように、神仏習合的な思想である。天海は天台宗の「山王一実神道」の形式で祀るべきで、これは家康公の御遺命であると主張した。

 これについて崇伝の意見は、神葬ならば神祇官の吉田神道だから、明神でよいのではないかというものだった。崇伝は天海や本田正純らと共に家康から直々遺言を聞いていたが、山王一実神道のことなど家康の口から聞いたことが無かったので、天海の言う家康の遺命という主張を疑っていたらしい。

 家康は梵舜から唯一神道の講義を受けていたが、一宗一派に偏しないという理由から伝授は受けなかった。しかし、山王一実神道については、慶長十九年[1614]に五回にわたり天海から血脈伝授を受けたという。このことは『駿府記』や『台徳院殿御実記』にある。
 家康の考える死後に徳川の守護神になるという考えと、天海の教える山王一実神道の思想がマッチしたと家康は考えたのだろう。

 権現にこだわる天海に将軍秀忠は、なぜ明神は悪くて権現はよいのかと何度も理由を尋ねた。すると天海はなかなか答えず、最後に「豊国大明神の子孫はどうなりましたか」と言った。豊国大明神とは豊臣秀吉の神号である。豊国神社は豊臣氏の滅亡により破壊された。その豊国大明神の神号を選んだのが、吉田神道であった。

 この一言が効いて、家康の神号は大権現と決まり、幕府は朝廷に提出。朝廷からは「東光大権現、東照大権現、日本大権現、威霊大権現」の四案が示され、天海が東照大権現を選んだ。
 東照とは「日出東照一天」すなわち太陽神天照大神と同等の神であるという意味であり、天皇の祖先神に匹敵する神に家康が成ったということなのだ。

 家康が神葬された翌元和三年[1617]東照大権現の遷座祭が久能山で行われ、久能山東照社が創建された。(東照宮と呼ばれるのは1645年から)


 久能山の位置を地図で見てみよう。三池の宝刀の切っ先は真っ直ぐ西を向いている。それは京の方角だ。

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 つまりこれは京都にいる勢力、天皇を頂点とする朝廷に向けた呪法なのだ。
 あるいは秀吉の眠る豊国廟をにらんでのことか。豊国廟のある阿弥陀が峯の緯度は北緯34.98832°。久能山東照宮の緯度は34.96510°。ほぼ正確に東西ラインにある。
 世継ぎの秀頼を大阪城もろとも滅ぼした家康。秀吉が怨霊となって徳川氏に祟るのを防ぐ狙いもあったのだろうか。


                               つづく


 

 



 
 


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