江戸城を守護する二つの社①神田神社
神田明神といった方が通りがいいかもしれない。正式名称は神田神社である。千代田区外神田にあるのだが、最初の場所は千代田区大手町にあった。現在、将門塚がある場所である。
久しぶりに将門塚を訪れた。そしてまず、すっかり様子が変わっていたのに驚いた。
なんだか、すっきりとしているのは、以前にあった玉垣や、由来を刻んだ石碑などが無くなったせいだろうか。現在のようになったのは令和三年というから、つい最近のことだ。
将門の首級は京で獄門にされていたが、三日三晩ののち東を目指して飛び、落ちたところがここ、武蔵国豊島郷芝崎村だったという。大地は鳴動し太陽も光を失って、人々は畏れて首を埋葬したが、その後も祟りが続いた。
そこで、時宗の他阿真教上人が将門に漣阿弥陀佛の法号を追贈し、板石塔婆を立てて日輪寺で供養をし、塚の傍の神田明神に合祀したところ、ようやく霊も鎮まったということだ。徳治二年[1307]のことである。
実は塚は将門よりもずっと古い時代の古墳ではないかと思われる。芝崎村辺りを最初に開発したのは出雲系の人々だ。芝崎村は平川の河口にあり、目の前は日比谷入江があった。古墳は最初にこの地を開発した彼らのリーダーの墓だろうか。神社を創建した真神田臣の墓かも知れない。神社の創建は天平二年[730]で祭神は大己貴命。出雲族の神様だ。
ずっと時代は下って、江戸に幕府が開かれ、江戸城を大増築することになり、慶長八年[1603]神田明神は神田台に移された。しかし、塚はその後もこの地に残ることになった。
そして元和二年[1616]現在の外神田の地に移転する。
神田祭は江戸三大祭のひとつだ。(他は赤坂の日枝神社の山王祭と、富岡八幡の深川祭)中でも、神田祭と山王祭は山車が江戸城内に入り、将軍が直々上覧するため、天下祭と呼ばれていた。神田明神と日枝神社は江戸城を鎮護する社とされていたからだろう。
慶長五年[1600]関ケ原の戦いの時、徳川家康が神田明神に戦勝祈願をして勝利を収めて以来、徳川家にとって縁起の良い神様となった。平将門公は勝負の神様なのだ。
明治四年[1872]神田明神は神田神社に改称された。が、現在でも神田明神とふつうに呼ばれている。
明治七年[1874]明治天皇が行幸された。それに先立ち、将門公を本社の祭神から外し、代わりに少彦名命が勧請された。逆賊とされた平将門を天皇が参拝するのはまずいと考えられたのだろう。将門の御霊は摂社に遷された。
昭和五十九年[1984]我らが江戸の守護神、平将門公の御霊が本社の御祭神として復活。このニュースはおぼろげながら記憶に残っている。
翌年、荒俣宏が小説「帝都物語」を発表して大ヒット。将門にまつわる怨霊譚やら陰陽道やらドーマンセーマンやら、今も続く日本的呪術ブームの端緒となった。
最近では秋葉原が近いこともあって「アニソン盆踊り」なる行事も行われているらしい。神社で盆踊りっておかしくない?
私的には神田明神といえば「銭形平次」なのだけどねぇ…。
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