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武田の軍師『山本勘助』と真田三代(幸隆・昌幸・信繁)について

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母の実家は、信州の上田。調べてみると、この地方を治めていた海野(ウンノ)氏の系譜につながるらしい。この海野氏から真田一族が生まれたという。自分としては、そう遠くはない関係があったのではないかとみている。

さて真田一族といえば、戦国時代に武勇で名をはせた。日本人、だれもが好きな「小さいもの」が「大きいもの」に勝つことで、いまだ人気は衰えない。天下を統一し、160年にわたる江戸時代の基を築いた家康。この家康をして、真田一族は終生にわたり脅威をあたえたと言っていい。
しかし、真田幸隆、正之、信繁(幸村)の3代にわたり、なぜ活躍できたのか?いまだ謎ともされている。今回はこの辺のことを見ていこうと思う。

そもそも、真田幸隆とはどんな人物だったか?1541年、武田家の嫡男・春信(以下.信玄)は、その父・信虎を駿府に追いやって、家督を相続する。このときに幸隆は、武田家の家臣となった。そして幸隆は、すぐに武田のなかで頭角をあらわす。

その10年後におこなわれた武田による「戸石城攻め」。村上義清の居城だったこの城の攻略に信玄は、てこずった。いわば負け戦だったと言っていい。しかし、後を任された幸隆、なんと一日で落城させてしまう。信玄が1ヵ月近くも攻めて落とせなかった城。幸隆の名は、武田家のなかでも一気に力を持つことに…。

幸隆が、武田家の家臣になったニ年後、山本勘助が信玄に召しかかえられた。勘助は、幸隆より20歳ほど年長。たぶん外物(ソトモノ)同士のつながりはあったと思う。勘助はこのとき50歳、諸国を渡りあるき、仕官の口をさがしていた。そんな勘助を、23歳だった信玄はその能力を見込んだようだ。

山本勘助という人物、人にモノを教えることをいとわない!そんな性格だったようだ。自分が身につけてきた秘伝とも言うべき、技術や知識を惜しげもなく伝えたと思われる。真面目な教え子となった幸隆。築城術から戦い方など軍学の技を磨いたとおもわれる。その技術が、「戸石城攻め」で生かされた。
 
「戸石城攻め」の決め手は、諜報と調略だった。村上軍のなかで家臣の対立があり、それを利用したのだ。有力武将への買収や、土地の支配権で、巧みに武田方へ寝返らせた。このことで幸隆が攻めたときには、城門がなかから開いたという。

幸隆の教育をもっとも真面目に取り組んだのが、三男の昌幸。この昌幸は、武田家が滅んだあと、主君を短期間に四度もかえている。信長.北条氏.家康、さらに上杉へ…。しかし、これは仕方なかった。周りを強国により囲まれ、弱小国の真田にとって、「どう生き残るか?」、それだけで動いていたということだ。

けっきょく徳川とはニ度にわたり戦うことになる。一つ目は1585年の「神川の戦い」、そしてもう一つが1600年の徳川秀忠軍との戦い。「神川の戦い」は、徳川軍7千にたいし真田軍2千だった。関ヶ原へむかう途中の秀忠軍との戦い。こちらは徳川3万8千にたいし真田3千と言われている。この戦い、どちらも昌幸のゲリラ戦術により真田方が勝利。真田の名は、全国に広まる。

しかし時代は、関ヶ原に勝利した徳川の治世へむかう。真田家は、石田三成方と徳川方に分かれた。昌幸と信繁は石田方、徳川方についたのが嫡男・信之。負けた石田三成方についた父と次男、命を奪われても仕方なかった。しかし、信之の嘆願により、紀州九度山への無期限蟄居というカタチで救われることに…。

この後、さらに家康は、権力を豊臣から奪うこと目論む。難癖をつけ、様々な言いがかりで、淀君とその子・秀頼を追いこむ。その結果、大阪城での戦さが始まる。この戦いに、すでに45歳になっていた信繁が加わった。

信繁の作戦は、大阪城でいちばん手薄となる南方に出城を築くこと、真田丸の築城である。ここで幸隆・昌幸から伝えられた、山本勘助流の築城術がいかされた。この戦さで、信繁は華々しい戦果をあげる。しかし、淀君は家康との和睦を選択してしまう。すぐに真田丸は取り壊され、大阪城の堀もすべて埋め尽くされた。丸裸となった大阪城。ニ度目の戦いでは、あっけなく敗れ去り、豊臣家はついに滅びた。

まとめ
山本勘助の存在自体が疑われた時代があった。文献が乏しいこと、後年になって書かれたものがほとんどだからだ。しかし、武田信玄の強さや真田の戦果は、山本勘助なくしては成り立たない。

勘助は、50歳になるまで全国を渡り歩いている。兵法修行や軍学を収めることといえば聞こえが良いが、ただ仕官先がなく、行き場がなかっただけといってもよい。しかし、このことによって様々な知識を身につけたと思われる。築城の技術や諜報調略の術、さらにはゲリラ戦術までもものにした。

流浪の民である「サンカ」とのネットワークも大きな力となっている。士農工商には属さない仕事で生活をしていたサンカの人々。彼らは、山岳修験者などを通じ、さまざまな情報をえていた。これが強みだったといって良いだろう。

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