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家康の側近、天海僧正の不思議にせまる!

#天海 #家康 #日本史
#歴史 #延暦寺 #天台宗  
秀吉により、関東への国替えとなった家康。その国づくりで中心になったのが、僧正の天海(テンカイ)と言われている。江戸の町を、大阪以上のものにした手腕は一体どこから来ているのか?その辺を考えてみたい。

天海の出自は、あまりよくわかっていないようだ。一応、陸奥国高田出身とはなっているが、定かではない。108歳にて没したところから、生誕は1536年となっている。

家康と初めて会ったとされるのが、小田原征伐のときの1570年頃という。会津の蘆名重盛に随行した僧の『随風』が、後の天海だった。以後、家康の指南役して徳川家を支えつづけていく。

この天海、不思議なのは、様々な知識を持っていたことだ。天台宗でも、抜きんでた人物だったようだが、それにしても驚きの博学だった。また、家康との開口一番、つまり初対面では、旧知の間柄のような接し方もしたという。家康は、天海のことをそれ以前から知っていたようなのだ。

天海の業績を列記してみると…。
①延暦寺の再興 1607年 ②川越、喜多院の再建 1612年 ③日光山貫主として、本坊『光明院』を再建 1613年  ④家康の神号『東照大権現』をきめる  ⑤江戸の鬼門に当たる場所に、それを封じた厄除けをおいた  ⑥江戸城の内部を「の」の字型構造とした ⑦上野の整備に力をいれた 。江戸の町をまもるため寛永寺を建て、山々には桜をうえた  ⑧日本の一切経と呼ばれた「大蔵経」の出版を企図した。

*天海の不思議⑴
春日局と初対面したとき、天海にたいし「お久しぶりでございます」と告げたこと。だとすると、旧知の間柄ということになる。春日局は、名をお福といって、明智光秀の家臣「斉藤利三(トシミツ)」の娘だった。稲葉家に嫁いだが、離縁して、三代将軍となる家光の乳母となった人物である。

*天海の不思議⑵
天海の墓について。全国に三か所ある。上野寛永寺と川越喜多院、そして近江坂本。前の2つは、関係が深いからわかるとして、坂本が解せない。坂本の西には、比叡山がある。天海は、寺で学び、その再興も行った人物。しかし、なぜ比叡山ではなく、その麓の街に墓を建てたか!疑問はのこる。

坂本といえば、中世において、信仰の街として賑わっていた。日吉大社の総本宮があり、伝教大師最澄のひらいた延暦寺もある。しかも、琵琶湖舟運の港町だ。神道と仏教の融和する街でもある。

だからといって、なぜこの地なのか!天海自身の出自に関係するのではないかという見方も出てくるようだ。

*天海の不思議⑶
家康の死後、問題となったのが「神号(シンゴウ)」だった。神号とは、神として名付けられる称号のことだ。ここで天海は、「権現」を主張した。しかし、この権現という神号は前列がなかったため、ほとんどのものは反対する。

家康の臨終にさいし、その遺言を聞いたのは3人だった。本多正純と以心崇伝そして天海。天海は、たしかに家康がいい残したと主張したが、激論となった。結局、秀忠の裁定で「権現」にきまる。いわば、一方的な主張ともいえる天海の提案。このとき、なぜ秀忠は天海の話しを受けいれたか!疑問は残る。

この神号問題は、後に尾をひいた。以心崇伝は、秀忠の不興をかったのだ。つまり、シコリをのこすほどの言い争いがあったということだった。

*天海の不思議⑷
天海イコール明智光秀説。この説を唱える人は、以前からおおい。日光には明智平があるし、延暦寺には光秀銘の石灯篭があるとか…。しかし、光秀と天海、年齢が合わないのだ。光秀は、1516年生まれたとされている。一方、天海はというと1536年に生まれたようだ。だいたい20歳の差がある。どうも、少し無理があるように思えるのだが…。

まとめ
天海には、逸話がおおい。家康が江戸の地に初めてはいったとき、多くの僧は豪華な献上品をもって、家康に会いにいった。ところが、天海は長寿薬といって納豆をもっていったそうだ。家康は、ほとんどの献上品は受けとらなかったが、この納豆は喜んだという。人の機微についてもよくわきまえていた。流石というしかない。

天海イコール光秀説は、無理があるとしても、光秀ゆかりのものの可能性は否定できない。遠縁のものかもしれない。もっとも有力視されている説が、明智左馬之助、別名は弥平次だ。年齢はぴったり当てはまる。不思議⑴と⑵を考えてみると、この説はかなり当たっているのかもしれない。

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