(とりあえず現時点の)自分には「限界がある」と開き直ること、それを分かち合えること

告るは一時の恥。告らずは一生の恥。

100%パーフェクトな人なんてこの世にはいなくて。
職制上ランクが上がったから100%を求められるほど理不尽なこともないわけで。

私は多分この世の誰よりもズボラで現実主義者で功利主義者なので、「できるヤツがやったらいいじゃない?」と心の中で思ってしまうのです。

「**という肩書きだから、この仕事はできなきゃいけない」
「##という職名で人より高い給料もらってるんだから、人よりたくさんタスクをこなさなきゃいけない」
「ええっ%%が苦手なんて何言ってんの?」(以下略

あのね。
組織の求めるスペックに自分を合わせようとするから、人事評価における「できる/できない」が必要以上に峻別化され、人事上の幸不幸(厚遇されたり、左遷されたり、リストラされたりするなど)が分かれるわけですよ。

今集まっているピース(人材)。
それはどれもが逸材というわけじゃない(はずですよ?)。
しかし、ある人のある部分は「逸材」かもしれないし、別の人の別の部分は「余人代えがたい」ものかもしれない。
ある視点で見れば「仕事のできないでくの坊」かもしれないけれど、組織の論理でぶった切れない隙間産業的な部分で、組織がうまくいく「ゆるみ」を持たせているのかもしれない。

ある目的を果たすために、合理的合目的的に作られるのが「組織」であり、それに当てはまる人をかき集めたり教育したりするのが「人事」なのだと思いますが、その論理を超えたところに、組織が円滑に回り、案外ご機嫌に目的を達成するメカニズムがあるのかもしれないですね。

職制上は「平社員」というなの「無冠」であっても、その職場にはなくてはならない、そこまでいかなくても、何となく「いないと寂しかったり、いてくれると何となく安心できる」、そんな存在の人って、いますよね?

そういう人たちや役割を切り捨てては来なかったでしょうか。
欧米の企業のように「職務記述書(job description)」ありきで動く組織が幸せなのでしょうか。

例えば私個人は、独りで引きこもっていたい(ずっとそうじゃなくても、そういう時間を他人様よりも多く確保していたい)人間なのですが、

*期せずして属することになった組織の中にどういう「居場所」があるのだろうか?
*自分も気負わず生き生きとしていられて、周囲の人たちとも調和できていて、その集積が組織を活性化させている、そんなあり方は認められないものだろうか?

組織に人を当てはめるのではなく、「合目的的に」人に合わせて組織や職掌を随時組み替えていく、そんなのもアリだと思うのですが.......。

そのために、「自分はこれが得意なんだけど、こっちは苦手なんだよね」と自覚した上で、それをお互い気軽に言い合えて、補い合える関係性が持てる組織であることが必要なのでは? なんて、ふと思った次第であります。

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目覚舎(めざめや)

「内面世界メッセンジャー」ならびに「哲学・真理探究系ファシリテーター」なるアイデンティティに関連した、軽重織り交ぜたメッセージをお届けします。というか、その境地へたどり着くまで日々格闘する気づきや戯れ言が並ぶと思います。

我が霊性)スピリチュアリティ探求

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