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名古屋大学豊田講堂と私

 実は、というほどのことでもないのだけれど私は名古屋大学を受験した。関東在住の学生だったので新幹線に乗って単身名古屋に行き、現地で一泊して受験した。

 試験前日はいまさら特にすることもなかったので、名古屋に着いてからは会場の下見もかねて名古屋大学の構内をうろついてみた。大学クチコミ本か何かで「名古屋大学は四角い建物がやたらと多い工場みたいなキャンパス」みたいなことが書かれているのを目にしていたので、歩いてみるとたしかにその通りだと思った。最寄りの地下鉄駅から地上に出てすぐ目にする建物が特に、強烈な四角い印象を与えるものだったのでそれがキャンパス全体のイメージを決定づけていたようにも思う。その建物が豊田講堂だった。

 私は世界史で点数を荒稼ぎする受験スタイルだったのだけれど、名古屋大学のこの日の世界史試験ではなぜか頭が突然まっ白になってしまい、まったく解くことができなかった。記述式の広大な答案用紙が私の頭の中を映写しているかのようにまっ白なまま、時間だけが経過してゆく悪夢のような時間だった。私はセンター試験を割とミスっていたので、この日の世界史で失敗してしまった時点で、自分の国立受験は敗戦が確定したも同然だった。がっかりした。

 試験終了の鐘と同時に、「フンだ、もういいよ。」と思いながらやけくそ気味に、試験会場を猛烈な速さで後にした(世界史が最後の科目だった)。試験が終わって一番最初に大学敷地を出た受験生は自分であったという、くだらないことを鮮明に記憶している。足早に地下鉄駅に降りて行くとき最後にちらっと、また豊田講堂を見るともなしに見た。やさぐれているときでも視界に入るとなんか見てしまう建物だなと思って気になった、という記憶がある。そして、この四角い建物を見ることももう金輪際あるまい。と思って地下鉄駅の階段を駆け下りた。

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 と思いきや、それから10年以上経ってから、名古屋大学とは別の大学の大学院生として所用ありて名古屋大学を再び訪れることになったのだから人生は分からない。しかもその時分には建築好きになって、高校生だった自分の脳裏にやたらと印象に残ったあの建築が、槇文彦の初期の名作であると知ったうえで再会することになるとは。

 「やあやあ、10年以上も前のあの時のやたら四角かったあなたは、槇さんだったのですね。」などとなれなれしく建物に向かって、つい話しかけそうになってしまった怪しい30代中年男性として再び豊田講堂に対面した私。

 あれから私はまあまあ歳をとった。10代から30代、という懸隔である。ここで、私も歳をとったし建物も同じく歳をとった、こうしてお互い年季が入ってゆくのだ、となったら話はうまくまとまりそうなのだけれど・・・

「あ、あたらしい!!」

 豊田講堂は2006年から2007年にかけてアンチエイジング(修繕)されておった。「汝、悪魔に魂を売ったのかッ。」と叫びたいくらい、うつくしくピカピカになっていた。この修繕は設計が大元の設計主と同じ槇総合計画事務所で、施工が竹中工務店とのこと。建物は丁寧に修繕すればこれほどまでに若返ることができるのか、と感心した。歳月を経て古びてゆく建物を眺めてこそひとは、自分も同じように年齢を重ねているのだろうなと実感するものだと思っていたけれど、自分を差し置いて若返りを果たした建物を見てもやっぱり、自分は歳をとったと結局実感することになる、と、私に発見させた名古屋大学豊田講堂。結局じぶんは歳をとるのである。

 そして、質のきわめて高いこのような修繕(+増築もしている)を実行に移した名古屋大学、設計者、施工者、それから資金サポートをしたトヨタ自動車とそのグループ会社の志はとても尊いと思った。

 あと、私がこの建築を訪れたときには学生のコンクールか何かが行われていたようで、講堂は若い学生たちによって使われていた。幸せな建築だと思った。彼らの撤収作業のどさくさに紛れて、ちゃっかり建物内のホールも見物できたのは建築の幸せのおすそわけをさせてもらっちゃったのだと勝手に解釈している。


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