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フェルナン・プイヨンの長椅子(後編)

フェルナン・プイヨンの経歴を紹介した前編に続きまして、以下の文章は、そのプイヨンの集合住宅事業の総決算にして代表作であるポワン=デュ=ジュール集合住宅を見学してきたときのはなしです。

この集合住宅はブローニュ=ビヤンクール市の、モーター機器製造会社サルムソンの工場跡地に造られたもの。およそ8ヘクタールの土地に2260戸の住宅という、壮大なプロジェクトです。しかし決して大味な空間構成にはなっておらず、南北に分かれた敷地のそれぞれ中央に核となる緑地が置かれ、その周りに大小・高低様々な住居棟が、景観に変化を与える形で巧みに配されています。

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その内訳は、南北端に21階の高層棟が2棟、中央に12~16階の中層棟が9棟、それを囲う形で2~11階の細長い棟、という構成。それらの棟がまっすぐ、あるいは雁行してパズルのように並べられています。自動車の侵入は不可で、建物に囲まれた空間は静かな時間がゆっくりと流れていました。

プイヨンはコンクリートよりも石による建築をとりわけ好みました。そのため氏の手がける集合住宅地は大体、窓ガラスと石の建築群が緑地空間を囲う格好になっています。その空間をそぞろ歩いていてわたくしはふと、これは南仏にお馴染みの風景の中を、つまり硬質で切り立った岩山に見下ろされた森の中を歩いている体験ではなかろうかと思いました。高低の変化がつけられた各棟の連なりも、そう考えると岩山の稜線に見えなくもない。南仏育ちのフェルナン・プイヨンのたぶん原風景みたいな風景が、集合住宅から発せられる生活感や石材や植生と一緒に、呼吸をしているように感じられました。そして森を歩いているとたまに湖にたどり着くみたいに、敷地内にて、感動的なまでにうつくしい池に出くわしたりもする。

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安価な集合住宅であってもモニュメンタルでなければならない、というのがフェルナン・プイヨンの基本思想のひとつ。そのような思想が、水、石材、ガラスという物質となって紛れもなく現出している様を、この親水区画にて目の当たりにする思いがしました。

と、スペクタクルかつどこかナチュラルなこれらの建築、風景に感動し続けていたのですが、なかでも一番印象に残ったのは実は、無造作な感じに置かれたこのベンチ。これをふと見た瞬間、これはなんなんだろう、と思うと同時に、なぜか非常に感動したことをはっきりと覚えています。大げさかもしれないですが雷に打たれたような衝撃でした。

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8ヘクタールの土地。2260戸の生活。モニュメンタルな水辺の広場。それに対して、大人がせいぜい6、7人くらいしか座れなさそうな、しかもなんかバランスも悪そうな、このそっけない二つの長椅子は、一体なんなんだろう。背もたれもないし。しかし長椅子の足元は石つぶが絨毯みたいに敷かれている。それにしてもよく陽が当たっている。

多分に誇張が混じっているとは思うのですが、ある記事では、フェルナン・プイヨンの人となりがベンヴェヌート・チェッリーニやジャコモ・カザノヴァの名前などと共に語られたりもしています。当時のプイヨンはそれくらい派手というか、目立つ建築家だったのでしょう。じっさいCNLの代表としていくつものプロジェクトを勝ち獲って華々しく活躍してもいたので、そういうイメージもあながち間違ってはいないんだと思います。加えて、写真を見ると風貌がとても格好いい。しかし、そういうプイヨンが、こういう目覚ましい大事業において、こんな朴訥な石の長椅子をそっと置いている。これは一体なんなんだろう。(この長椅子を置かせたのはもしかしたら、風景監修者でプイヨンの協力者ダニエル・コランなのかもしれませんが、それにしても。)

しかもここは集合住宅の敷地の中。わざわざこの屋外の長椅子に座らずとも、目と鼻の先にある家に帰れば、室内にもっと快適であるだろう椅子なんていくらでもあるはず。そんななかにぽつんと置かれたベンチ。どうしてわたくしは、この椅子がここに在ることにそんなに心打たれるのだろう。

そこでわたくしが考えたのは、家と家の外、という場所について。この長椅子は、なんか色々な事情で家に帰りたくない人とか家にいられない人、でも家から離れられない人なんかが使うのかもしれないなと想像しました。たとえば、夕方に親とけんかした子供がすねて家を出て、このベンチの上でひとり体育座りしてたり。自宅をちょっと抜け出て、恋人(こひびと)と逢引き(あひびき)をする場になったり。あるいはただ何となく室内でクサクサして、気分転換で日光浴しにこの椅子に腰かける研究者とか。あるいは自宅でバルサン炊いた人がここで暇つぶしにバルザックを読んだりとか。

つまりこの広大な集合住宅地には、自分の家を後にして屋外に出ても、ちっぽけな形ではあれ、それでもまだ自分が座を占めることができる場所が、すぐ近くに用意されているんだな、ということを思ったのでした。自宅じゃないけれども、自分が居られる場所、居てもいい空間。みんなの自宅の延長空間。この長椅子って、そういう存在なのかも。

でも、そういう空間が変にゴージャスだったりすると多分落ち着かない。しかもそういう奢侈はこの集合住宅建造の理念に反する。そういうわけで、こういうそっけないベンチ。「あなたはここにいてもいいんですよ。」という言葉はそっけなく放たれた方がかえって温かみを持つ場合もあるのです。この石のベンチを見ると、できる限り良好な住環境を、廉価で、最大多数の人々に供しようというプイヨンの理念は、ただの喧伝的ハッタリではない、実直な心根から出たものだったとしか思えないのです。

そんな風にぼんやり考えながら連想したのは、旭川大学が行っている「『君の椅子』プロジェクト」。これは、旭川市で新しく生まれた子に、その子だけの椅子をプレゼントしよう!という企画。これって本当に素晴らしいプロジェクトだと思います。ここで贈られる椅子はまあ、プイヨンの素朴なベンチとは異なる、もっと特別感のある椅子なんでしょうけれど、それでも、両者が発するメッセージはそこまで大きく違ったものではないような気がしました。

それからさらに頭に浮かんだのは、中原中也の次のような詩句。それを唐突に引用し、いちじるしく脱線して本記事を終わろうと思います。詩人であることとは、いかなることであるのか。

港市の秋

石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛[かたつむり]の角でもあるのか

町では人々煙管[きせる]の掃除。
甍[いらか]は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。

『今度生れたら……』
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々がうたふ。

  港[みなと]の市[まち]の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子[いす]を失くした。

「椅子を失くした」中原中也はまた、次のようにうたう詩人でもあった。「あゝ、家が建つ家が建つ。/僕の家ではないけれど。」


* * *

引用した中原中也の2つの詩の出典は、以下です。
「港市の秋」、『中原中也全詩歌集 上』、吉田凞生編、講談社文芸文庫、1991年、50‐51頁。2番目の詩は、「はるかぜ」、『中原中也全詩歌集 下』、前掲、258‐259頁。「はるかぜ」は部分引用。原文ルビは(やむを得ず)[]にて表記。旧漢字は新字体に改めました。

なお、ポワン=デュ=ジュール集合住宅はいまも多くの人々が生活している住環境です。もしご訪問をなさる際は、住民たちのプライヴァシーや静穏な環境を最大限、尊重してくださいますようよろしくお願いいたします。

参考資料等(本記事「前編」と同じです。)
・« La résidence du Point-du-Jour à Boulogne-Billancourt », le site du Ministère de la Culture. [PDF] ポワン=デュ=ジュール集合住宅プロジェクトに関する、フランス文化庁の詳細なレポート。すばらしい仕事ぶり。
・« Fernand Pouillon : biographie », le site de Fernand Pouillon Architecte, géré par l'association "Les Pierres Sauvages de Belcastel". フェルナン・プイヨン友の会による詳細な伝記。
・Sophie Pinet, « Le Point du Jour, ou la beauté pour tous », le site AD Architecture, 2014. 逮捕前後のプイヨンについて触れた記事。
・« Fernand Pouillon », Wikipédia. ウィキペディア。

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