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人間はどこまでも

イザヤ58:6-11 
 
断食をしても、主は顧みてくださいません。現代のキリスト者は、この断食という習慣を、ふつうもちません。やってみているグループもありますが、ユダヤの規定通りに行えばよい、というふうには思えません。「苦行」とも言い換えられています。自分が何か耐えれば、神はそれを憐れみ、よいことが返ってくるだろう、と期待しているのでしょうか。
 
そうなると「断食」とは、そのような見返り主義を象徴する出来事となり得ます。見返り期待の自己目的がそこにあるのだ、と。ルターが苦行の空しさに気づいたのも、そういうことなのかもしれません。なんのことはない、旧約のときにはすでに、このようにイザヤが適切に、そのことに気づいて述べています。そして本当の断食はそれとは違う、とも。
 
「虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ること」が断食なのです。「飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けること」を、断食というのです。そこで初めて、あなたに報いがある、とイザヤは告げています。苦しむ人を逆に虐げている自分に、ハッとさせられます。
 
だが待てよ。ここにも、同じ構造が潜んでいやしないでしょうか。これこれを行えば報いがある。だからそれを目当てにして支援するなど善行に励めば、神からよいことをしてもらえるのだ。そんなふうに目論んだとしたら、どうでしょうか。人間の考えることなど、どうやっても同じことなのです。性根が腐っているとしか言いようがありません。
 
どういう教えを受けたとしても、しょせん同じ結果となるのです。同じループに陥ります。確かに、これこれの善行を、しないよりも、した方がよいでしょう。けれども、何のために、というところが変わらないのであれば、人の計画は、ただの企みになってしまいます。人間の考えることは、しょせんその程度のことでしかないのです。
 
もちろん、真の断食を熱く語るイザヤの言葉そのものは、虚偽ではないと思います。しかし、受け取る側の人間がどうであるか、そこに掛かっている事柄なのです。そこにあるイザヤの言葉だけで、完結しているわけではないのです。そのためにはイエス・キリストが必要なのでした。新約聖書の福音が、どうしても必要だったのです。

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