見出し画像

神と人とをつなぐ

ミカ7:18-20 
 
神の審きを告げ、終わりの日の到来を預言するミカですが、その眼差しは「救い」に向けられています。「わが救いの神を待つ」(7:7)というのが、ミカの信仰姿勢です。敵の口撃にも耐え、信仰の幻のうちにその敵の壊滅を見ています。エルサレムは復興し、平和が訪れる、イスラエルの民は神の民として主を礼拝することになる、と預言します。
 
なんとも希望たっぷりの預言書です。「あなたのような神がいるだろうか」はもちろん反語ですが、当然、そんな存在はありません。「ご自分の民である残りの者のために過ちを赦しその背きの罪も見過ごされる方」は、唯一です。イスラエルはどれほど主に背いてきたことでしょう。しかしそれでも神は問いかけ続けてきました。
 
背きの歴史のために、神がこの民に復讐をしてきても、当然というような情況です。けれども主は、そのような破滅は望みませんでした。民もそれに応えて「もはや戦いを学ぶことはない」(4:3)ようになることを、主は求めます。罪にまみれた民ではありますが、神はそれを見過ごしてくださる方である。そうミカは畳みかけて語ります。
 
イエスがその後このことを完全な形で実現しますが、もちろんミカはそのことを知る由もありません。「いつまでも怒りを持ち続けずむしろ慈しみを望まれる方」だと告げるに留まります。しかしこれは、精一杯の賛辞だと思います。そして「主は私たちを再び憐れみ私たちの過ちを不問にされる」と言います。そう、「再び」です。
 
主はいったい、幾度人に裏切られ続ければよいのでしょう。どんなに赦し続けるのでしょう。ユダの仕業を私たちがあれこれ他人事として議論している場合なのでしょうか。「あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる」というからには、神と人との間の罪が、神の手によって消失したことをミカが宣言していることになると思いました。
 
神と人との間を、預言者はこのようしてとりもちます。この務めは、後にイエスにより完全な形で救いが実現するまで、人々に信仰を与えることができました。創世記の記事をイスラエルの歴史として祈ることによって、ミカはこの預言を結びます。この祈りの言葉は、ミカと神の結びつきの強い絆を、いまの私たちにまでも伝えてくれています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?