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人の姿を新しく照らす預言者

エレミヤ31:31-34 
 
「その日が来る」、きっと来る。預言するエレミヤの中で、それはどういう位置を占めていたことでしょうか。これは信ずべきことなのだ、などという意識ではなかったことでしょう。信じざるを得ないこと、というわけでもないような気がします。私たちは、自分に与えられた言葉、という感覚をもつことがあるでしょうか。
 
自分の中から形になるのではありますが、自分が造り出したものではありません。これをエレミヤは「主の仰せ」と言います。本当だろうか、などと斜に構える余裕の欠片もありません。いまエレミヤは「新しい契約」を教えます。勇気あることです。イスラエルはアブラハムの契約を掲げ、出エジプトの歴史を踏まえてここまで来ました。
 
そしてダビデの契約が神との約束を確かなものとして、主に従うことの意識を痛感しました。この主に従うならば、イスラエルに神の栄光が輝くことでしょう。エレミヤは、ユダの名を挙げます。もはや全部族を持ち出してくるには至りません。エルサレムだけが、いま目の前にあるからです。そしてモーセの契約のようなものではない、と断言します。
 
あの律法の精神では、もはや生きていけないことに気づいているのです。それは、イエスの新しい契約に匹敵する意味をもつとは言えないでしょうか。エレミヤは度々「主の仰せ」と挟みます。これは主の言葉だ、と。イスラエルの民が破り棄てたかつての契約は、そのままでは維持できないのです。それほどに、人は神から離れてしまいました。
 
神が変わったなどと軽々しく言ってはなりません。人が従えないだけです。エレミヤは新しい契約を呈示する神を示しますが、神が変わったのではないのです。かつての律法は、掲示物ではありません。一人ひとりの心の中に刻み込まれています。神との関係が改めて結ばれます。人の罪を起こさないために、やがて神は痛みを経験することになるのですが。

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