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心がいつでも戻ることができる場所

申命記6:4-9 
 
申命記での十戒の提示が、この前にありました。モーセは、その掟とイスラエルの民との関係を説きにかかります。「聞け、イスラエルよ」の呼びかけは、今なお続いています。古の民族が聞いた声を、今私たちが耳にするのです。人類は、それほど変わってはいないのです。この申命記がいつどのように書かれたにしても、同じように響いてきます。
 
神の言葉を受けた者のもたらす知恵は、価値を落とすことなく、ここへ響いてきています。主は唯一。十戒の基盤です。心と魂と力、これらを妙に分析する必要はありません。人はその存在をかけて、全力で主なる神を第一とすることで、ここに置かれたのです。実に私の存在そのものが、そうしたことのために許されたのです。
 
「今日」は、これを聞いたその時のことであって、万人にとり、いまこの時を指しています。今日主が命じているわけです。この言葉を見に結わえ着け、額に証しとして示し、家にも、町にも掲示するのです。さらに、次の世代へ伝えなければなりません。継承のためです。子どもたちが、さらにまたその都度の「今日」を生きてゆくからです。
 
その「今日」に、主の言葉と出会い、主を知り、主を愛するようにならなければなりません。子どもたちへ、常に繰り返し告げるのです。家で、道で、寝ても覚めても、教えるのです。主の言葉が、いつもその唇に置かれているようにするのです。なんとオーバーな命令なのでしょうか。そんなこと、できるはずがないではありませんか。
 
文字通りにこれを実行するのは不可能でしょう。しかし、事ある毎にこれらの命令を思い起こすことなら、できるかもしれません。蓋をして押し隠すのではなくてねつねにこれらが湧き起こっては、起き上がり、その姿を示すようにしておきます。自分の中の良心が目覚めるかのように、起きてきたら、それを明らかにしようと構えておくのです。
 
そして、それとしっかり向き合います。こうしたことなら、できるかもしれません。信仰生活とは、そういうものではないでしょうか。何事も万全にできているということは無理です。それでも、意識がいつでもどこでも、そこに戻ることができるような場所があるとよいのです。心が落ち着ける故郷が、神の国というところであるのだと思います。

今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。
そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。
家に座っているときも、道を歩いているときも、
寝ているときも、起きているときも唱えなさい。(申命記6:6-7)

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