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イザヤが主の声になる

イザヤ50:4-10 
 
イザヤは「私」として、ここに立っています。「我々は共に立とう」と呼びかけてもいますから、単に個人的な告白に終わっているものではありません。しかしまずはイザヤ個人の体験と自覚が大切です。「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた」と、預言者としての使命を宣言します。それは「疲れた者を言葉で励ます」ためです。
 
イエス・キリストが、イザヤ書から多くをメシアとしての役割のためにくる意味も、分かるような気がします。「私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる」というエレミヤ31:25も併せて受け止めたいところです。主から私への呼びかけは、朝ごとにあったようです。聞くように、と呼び覚まされ、私の耳は開かれました。
 
私は自分を侮辱する者に対して逆らうことをせず、されるがままに任せています。それでも、私は恥を受けることがないと考えています。まるで、このイザヤは「主の僕」のようです。あの傷ついた僕の姿は、もしかするとイザヤ自身のことを述べていたのかもしれない、とも思えます。イザヤは、自分を義とする方として、主を見上げているのです。
 
この主は「近くにおられる」とイザヤは告白します。主が共にいる、というインマヌエルの実際の形である、ということなのでしょう。こうして「誰が私と争えようか」との自信が、ここから生まれます。イザヤは、この方こそ裁き人であると捉えています。「主なる神が私を助けてくださる」という確信は、いったいどこから来るのでしょうか。
 
ここへはまず「見よ」という言葉が初めにあったことに、気をつけてみましょう。ユダヤ文学に特徴的なこの言葉は、実際に見るという意味ばかりでなく、そこに注目させるはたらきがあると言われています。しかし私は、実際に人々に対して、視覚的に「さあ、見よ」と手を開いているようにも思えてなりません。
 
私を、この方は罪に定めるようなことをなさらないのだよ。さあ、イスラエルよ、この主をしっかりと見なさい。主を畏れる者はいるのですか。主の言葉を預かったこのイザヤの声に、それを神からのものとして聞き従う者はいるのですか。闇の中でも主を光とし、主を信頼して己れの支えとするのは、さああなたがたの中の、誰なのですか。

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