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『哲学の女王たち』

(レベッカ・バクストン+リサ・ホワイティング編・向井和美訳・晶文社)
 
正直、私もひたすら頭を垂れるほかない。女性哲学者の名を挙げてみよ。片手の指にも満たないのだ。情けない。本書から刃を突きつけられているまさにその一人となってしまった。
 
ここには20人挙げられている。徹底的にフェミニズム精神に満ちた本、というような先入観をもつ人には、「まえがき」で先制攻撃が始まる。プラトンの『国家』に女性の哲学者が登場していることが指摘されるのである。哲学は当初から女性と共にあったはずであるという前提を提示するのである。単に、女性を排除してきた、というようなものの言い方をしていない。だから男性は、静かに本書を受け止めて、拝読するしかない。
 
もちろん、これは社会的情況に関係している。だが、女性の社会進出が重要な基本としてとりあえず認知されてきた現代の中で、哲学者については女性は排除されているようにしか見えないのはなぜか。女性には哲学は向いていない、などと、筋力の差のように扱う偏見が蔓延していないだろうか。それは本書の編まれたアメリカでも同じである。女性の哲学教授は6人に1人、黒人に至っては1%であるという。
 
本書では、時代に従って人物を取り上げているが、終わりのほうでは黒人女性が幾人か登場する。現代の重要な概念の提示に貢献している、その人の名を私も知らなかった。恥ずかしい限りである。
 
1人の哲学者については10頁ほどと短いが、その生涯と業績が簡潔に語られる。現代への影響や貢献も、短い中でよく説明されている。それぞれの記事は別々の執筆者が担当しており、通り一遍に浅く記したものではない。その道のプロが紹介する。その意味でもこれは貴重な証言であり、解説であるだろう。
 
本書は「訳者あとがき」がまた読み応えがある。形式だけの「あとがき」も世にはあるが、これは本書をコンパクトによく解説している。むしろ、原書が抑えている主張を、はっきりと叫んでいるようにも見える。これを先に読むか、後から読むかは読者次第であろうが、必ず読むべきである。私は後から読んだが、そこには私も強く感じた点が指摘されていた。本書が、たんに反抗して吠えるようなものではなく、女性を取り上げるだけとしながらも、実に公平に述べているという点だ。それは、ハンナ・アーレントの考え方の中に、現代にそぐわない差別感があったことである。自身ユダヤ人として差別されてきた経歴がある故に、差別される側の苦しみに共感する、というふうに、単純に人間が割り切れるものではないということをあからさまにしている。もちろん時代的な制約や環境というものもあるが、私はこれはフェアな見方だろうと思う。そしてそれ故にアーレンとがだめだ、などというのではもちろんなく、それを踏まえた上でその業績を尊重していこうという、ある意味で当たり前のことを述べているだけなのだが、そのような公平さを私たちは果たして常に有しているだろうか、と反省させられるのである。
 
さて、私個人、その映画を見て激しく感動したのは、ヒュパティアである。改めてあの映画を思い起こした。文献から紹介してある本書を踏まえると、逆に、あの映画がよくつくられているということが認識できる。哲学教授そのものであった、アレクサンドリアのヒュパティア、キリスト教徒に妥協せず、ついにはキリスト教徒に虐殺された哲学者。また、数学者であり、天文学者。その執筆書そのものは遺されていないのが残念だが、当時は新規の説を発表するよりも、古代のプラトンなりアリストテレスなりを註釈するのが大事な仕事であったことを思うと、大きな仕事をした人なのだろうと尊崇する気持ちになる。そして、この人生盛りの女性を、世にも酷い殺し方をして高笑いをしていたキリスト教徒というものの末裔である自分が、忌まわしいとさえ思うほどである。私はキリスト教が憎い。そして、キリストに救われている。このスタンスを改めて目の前に突きつけてくれた意味でも、本書の役割は私にとり偉大であった。
 
女流作家とか女優とか女医とか、わざわざ区別することがいまなお普通にあるということをまとめてみた思えば、まだまだこれまでと何も変わっていない、としたほうが適切ではないかとさえ思う。それから、余計なことだが、これの日本版であれば必ず入ったであろう、池田晶子さんなども含めて、増補版を期待してもよいだろうか。

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