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『ルドルフとイッパイアッテナ』(斉藤洋作・杉浦範茂絵・講談社)

本書は、講談社の児童文学新人賞で入賞した作品なのだそうである。この点についてのエピソードは、「あとがき」に面白く書かれていて、私は全部読んでそこを見たものだから、くすくす笑いがしばらく止まらなかった。
 
ルドルフは猫である。「プロローグ」で、自分は字が書ける、と語り始めている。この辺りから、きっと子ども心を掴むだろう。彼の手記がこれなのだそうだが、すぐに話に入ってゆく。魚屋からししゃもを(本人も自覚しているのだが)盗んで、追いかけられる。その勢いで、跳び乗ったトラックに運ばれて、知らない街へ行ってしまう。そこは東京。そこで地域のボス猫に睨まれる。そのししゃもを寄越せ、などと。ルドルフは黒猫で、まだ大人ではない。そのボス猫に敵わないが、筋は通そうとする。その態度に感心してか、ボス猫はこのルドルフを気に入ることになる。
 
猫は、名前を、それぞれの人間が勝手に呼ぶことがある。ルドルフもその後出会う人に勝手に呼ばれるし、ボス猫もそうだ。ルドルフが最初にボスに名前を訊いたとき、ボスは言った。「おれか。おれの名まえは、いっぱいあってな。」これを聞いてルドルフは、「イッパイアッテナ」が名まえだと勘違いしてしまう。以降、ずっと彼の名をイッパイアッテナで通してゆくという始末である。この名まえの付け方が見事であると思う。
 
ルドルフは故郷が恋しい。飼い主の女の子にも会いたい。だが、おセンチにはならない。とにかく生きて行かねばならない。しかし、故郷がどこかも分からない。
 
物語を全部ご紹介するわけにはゆかない。が、読む楽しみを奪わない程度に口を滑らせてしまおう。
 
他の猫との関わりもあるし、このイッパイアッテナの武勇伝もある。犬と闘っても勝ったというのである。二人は野良猫として生活してゆくが、多少人間との関わりもある。特に学校の人たちとの関わりが微笑ましい。給食がクリームシチューの日に必ず行き、お裾分けをもらうのである。イッパイアッテナがそういう生活をしており、ルドルフもその恩恵に与るというわけだ。
 
どうしてシチューの日に行くのか。それは、イッパイアッテナが、字が読めるからである。献立を見て、その日を狙うのだ。字が読めるっていいぞ。二人は学校の図書室に入り、そこで本を見て学習する。ルドルフも、次第に文字が読めるようになってゆく。
 
夏休みは給食がない。だが、職員室に住んでいるのかというくらいよくいる、クマのような先生と二人は友だちになる。この先生、けっこうなポイントになる人である。
 
字が読める。これは物語の展開を大きく変える。テレビに映った映像から、ルドルフは自分の故郷の風景だと理解する。そして、そこに戻る機会を窺う。いろいろあって、そこに向かうバスに乗り込む計画を立てるのだが、その直前に、事件が起こるのだ。
 
そこから、ある人を泣かせたという場面が始まるのだが、私もお喋りが過ぎた。ここは沈黙しよう。
 
猫について多少は知る者として、物語の中で抵抗を覚えた点は指摘しておこう。まず冒頭からししゃもを食べる猫。一匹食べたところでどうということはないだろうが、猫がこれを常用することはできない。果たして飼い猫だったルドルフが、わざわざ魚屋からししゃもを狙うか、怪しい。というのは、ししゃもは塩分が多すぎるのである。猫は腎臓が弱い。塩分過多は命取りである。人間と同じものを食べるわけにはゆかないのだ。
 
だから、煮干しやクリームシチューという設定は、物語の中であるとはいえ、猫が好むとは思えないし、これを愛食してゆくのは、猫の体を蝕むこととなる。
 
また、牛乳を喜んで飲むシーンがある。これもよくない。ししゃもよりもよほど、病気に直結する。猫は、牛乳を飲むと下痢を起こし、またより深刻な症状を引き起す可能性がある。
 
猫の飲食物に関しては、この物語は相応しくない場面をつくりすぎている。この物語はなかなか長いが、小学生でも読める。その子が猫を飼うことになったとき、あるいは飼っているとき、物語にあったから、とクリームシチューを与えたり、ししゃもや牛乳を与えたりする可能性があるからである。
 
さて、それは措いておき、それで「あとがき」には何があったのか。もちろん、それを明かす勇気は私にはない。絶対に、物語を読み終えてから、最後にここを開いて戴きたい。この仕掛けが、この物語で一番良いところだったのかもしれない、と私は考えている。だから、どうぞ「あとがき」は後からお読み戴きたい。

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