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休みましょう (出エジプト20:8-11, 申命記5:12-15)【十戒④】

◆二つの十戒の大きな違い

十戒を一つひとつ味わう流れの中にいます。今日は第四戒です。いわゆる「安息日」についてです。面白いのは、この漢字の読み方です。日本の聖書には、少なくとも3種類あるのです。「あんそくにち」(文語訳・口語訳・新改訳)「あんそくび」そして「あんそくじつ」(フランシスコ会訳)。「日」という漢字には、読み方がいろいろあるのですね。ここでは共同訳関係のふりがなである「あんそくび」でお読みします。なおこれは、日本語としての読み方に関するNHKの見解にもなっています。
 
そもそも十戒は聖書では二箇所に置かれています。出エジプト記20章と、申命記5章です。どちらもモーセ五書という律法の書ですが、書かれた時期や動機など、かなりの相違があると考えられております。ここまで十戒のうちの三つについては、それらの間に違いはありませんでした。けれどもこの4番目に至り、大きな違いを見せています。ここだけがずいぶんと違うのです。
 
お読みくださったことで、いま引用は避けますが、概観するに、出エジプト記のほうは、創世記とつながっているように見えます。神が六日間で世界を創造し、七日目に休んだことを挙げています。このことから、十戒では、七日目に休め、とするのです。奴隷や家畜、寄留者までもが、休みの視野に入っているのがよいと思います。つまり、主人たるイスラエル人が、奴隷を休みなくこき使うことを禁じているわけです。ともかく、安息日の根拠は、神の七日目の安息だ、ということです。
 
申命記も、出エジプト記の記述を、少しニュアンスを変えながらも踏襲します。しかし、決定的な理由が異なります。ここは取り上げてみます。
 
主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。(出エジプト20:11)
 
あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである。(申命記5:15)
 
エジプトで奴隷の立場であったこと、これが強調されています。だからきっと、「男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる」(申命記5:14)と殊更に触れられていたのでしょう。エジプトで奴隷を経験した。それを思い起こせ、というのです。あの奴隷生活には、恐らく「休み」というものがなかった、というように伝えたいのかもしれません。
 
これらの違いについては、もちろん多くの研究があります。私の感じ方では、出エジプト記は、やはり創世記と直結しているのだと思います。創世記のヨセフの物語から、出エジプトへ至るつながりが強いからです。創世記というものが、その当時の民族の根拠となっていたわけです。
 
他方、申命記は、ダビデ王国ができて後の時代に、偶然に神殿の中から発見された、とされている書です。あるいはその時代につくられた、と言ったほうが事実に近いだろうと思われます。この時代、イスラエル民族のアイデンティティは、遙か昔の創世の時に結びつけられるというよりも、出エジプトの事件のほうが、重要だったのでしょう。民族の根拠は、エジプトから約束の地へ導かれた出来事にこそあると捉えるのです。
 
創世記にあるアブラハムやヤコブの物語こそが、イスラエルの始源である、といまは見えますが、王国時代の人々にとってそれはあまり関心のあることではなかったかのようにも見えます。詩編などでも、出エジプトの出来事が、繰り返し語られ、イスラエル民族の原点のように見られていることを思い起こします。
 
神の創造と、イスラエル民族の出エジプト。この両面がうまくバランスをとってきたのが、その後のイスラエルの歴史でした。が、ローマ帝国の属国となった辺りで、信仰生活にも不自由が生じたのではないかと案じます。そうなると、反ローマという意味もあるのか、ますます保守的な律法の支配が強くなるでしょう。原理主義の勢力が増し、律法を守る国粋的な考えをとるエリート組が、なかなか守れない弱い立場の人々を圧政的に支配していったのではないか、と考えられます。
 
そういう情況の中にイエスが現れ、イエスの活動が意味を成したのです。
 

◆安息日を守るために

大学の教授が「サバティカル休暇」を得た、という話を息子が聞かせてくれました。分かります。時々、あります。牧師の中にも、教会の理解を経て、そうやって海外で学んだ、という方もいます。一般企業でも、ゆとりのある会社が取り入れている場合があるともいいます。
 
「サバト」というのが、「安息日」という意味です。ヘブライ語に由来しています。だから、「サバティカル休暇」も、この十戒の故に生まれた考えであるということになるでしょう。「善きサマリア人の法」もそうでした。緊急の救護については責任を問われないとする法律のことです。
 
この「安息日」について強く印象づけた映画がありました。『炎のランナー』です。これについて語り始めると、さらに何十分費やすか知れないので、内容は省略します。安息日を守るために、パリ・オリンピックの日曜日のレースには出ない、と言ったエリック・リデルが、国賊扱いまでされるのですが、さて……。リデルは後に宣教師となり、中国で日本軍の収容所内で病死します。
 
日曜日を安息日として守ったリデルに比べて、私や、私の時代の者は、ずいぶんと変わりました。礼拝が終わると、いそいそと買物に出かけます。かつてヨーロッパでは、そもそも日曜日には店が開いていなかったそうですから、買物もままならなかったことでしょう。しかしいまや、この機に買物に行かなければ我が家では生活が回りません。
 
教会では、日曜日にはやはり礼拝に来ないと、という眼差しがありますし、そう教えられています。時に、日曜日に働いている世間の人々を、ちょっと憐れんだり、低く見たりするような意識が垣間見えることさえあります。信徒でない人について「ノンクリ」といった呼び方をするのを聞くことがありますが、私は嫌いです。
 
そう呼んでいる人こそ、日曜日に教会に来るのに電車やタクシーに乗ってくるとします。そこで働いている人々は、礼拝に出られない事情にあります。自分はその人たちの故に教会に来ることができたのに、悪く見るなど、してはいけないと思うのです。警官でも医療従事者でも、日曜日にも礼拝の時刻にも、社会と人々を支えていまする電気や水道などの事業でもそうであり、教会の礼拝はそれらの力で礼拝を開くことができています。感謝こそすれ、軽蔑めいた目で見ることなど、できようはずがありません。
 

◆休む日

そもそもその「安息日」、旧約聖書で七日目と呼ばれたのは、いまでいう土曜日のことです。細かく言うと、日没から一日が始まりますから、金曜日の日暮れからの24時間が、安息日です。そのため、十戒の規定通りに安息日を守ることを、キリスト教が言っているのではありません。イエスが蘇ったのは、日曜日の早朝または未明でありました。日曜日をも安息日とするようになったのは、弟子たちは日曜日に集まることを始めたことに基づくようです。
 
礼拝は、多くの教会で、午前の10:30あたりから始まります。かつてヨーロッパで、農民が教会に行くために好適であった、という話を聞いたことがあります。早朝から夕刻まで、一日に何度でも礼拝を開く教会もあります。カトリック教会の中にはそういうところもあるようです。
 
現代社会では、その日曜日に勤務しなければならないクリスチャンも数多くいます。毎週日曜日は仕事、という場合もあり得ます。とても10:30には教会に行けません。ある教会では、そうした信徒のために、早朝に礼拝を開くようにしました。そして礼拝後に、その人は出勤してゆくのでした。夕拝といって、夕刻にプログラムを設けている教会もありますが、似たような配慮があるのかもしれません。
 
休みがない企業を、いまは「ブラック」などと呼ぶことがありますが、過労死したときに報道で初めて、何十日休みがなかった、などと挙がってくるくらいで、現実にはあちこちで激務がなされているのだと思われます。コロナ禍の中、医療従事者はそうした目に遭うこともあり、しかも差別的な扱いを受けることもありました。この冬、コロナウィルス感染症への対応が変わって半年余り、コロナもそうですが、インフルエンザの蔓延が甚だしく、医療従事者の労苦はいまなお続いています。
 
他方、ワーカホリックといわれるケースもあります。「仕事中毒」という意味の造語です。なにより仕事を優先する人のことですが、へたに休むと何をしてよいの分からず、あるいは休むことへの不安があるなど、メンタルな面での問題が絡んでくるかもしれません。
 
休みがあっても、自分が何をしたいのか、分からなくなる。退職後、時間が急にできたときに戸惑う人も少なからずいると聞きますが、休みをどう自分のものとするか、それが問われているのかもしれません。
 

◆聖書の安息日観

新約聖書の福音書では、安息日はしばしば論争の種になりました。イエスが安息日に人を癒やしたことで、律法に厳格な者たちは、イエスに対して殺意を抱きます。実際に癒やしの現場を見たら、イエスを攻撃する恰好の材料になったわけです。
 
信仰が先鋭化する中で、安息日を守ることのできない庶民への攻撃も強くなります。羊飼いのように、安息日の規定に沿えない生活をする人々は、最初から人の数に入らないようなものと見る向きもありました。だからそこにイエスが立ち向かったのだ、というように、先ほど触れておきましたが、いまはもう少し、旧約聖書からも例を拾ってみます。エレミヤ書17:21に、安息日に荷物を運ぶな、とエレミヤが叫んでいる場面があるのですが、これはかつて口語訳で、刺激的な訳になっていました。
 
主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。(口語訳)
 
「命が惜しいならば」とはまた厳しく訳したものです。原語には直接そうした言葉はないようなのですが、身が引き締まるような気がします。
 
また、この十戒のある出エジプト記でも、35章になると、かなり物騒な言い方で、安息日が突きつけられます。
 
六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。(35:2)
 
旧約聖書続編には、この安息日について深刻な事情があったことが記録されています。マカバイ記の2章ですが、シリア軍が、荒れ野に隠れていた市民を攻撃したのです。安息日だったので、彼らは逃げも隠れもせず、投石といった抵抗もしないで、みすみす殺されてゆきました。一千人が犠牲になった、と続編は記しています。
 
39マタティアとその友人たちはこれを知って、激しく彼らを悼んだ。
40:彼らは互いに言い交わした。「もし我々すべてがあの兄弟たちが行ったように振る舞い、自分の命と掟を守るために異邦人と戦うことをしないなら、敵はたちまち我々を地上から抹殺してしまうだろう。」
41:こうしてこの日、彼らは決議して言った。「誰であれ、安息日に我々に対して戦いを挑んで来る者があれば、我々はこれと戦おう。我々は皆、隠れ場で殺された兄弟たちのようには決して死ぬまい。」
 
こうして、安息日が敵に狙われても、抵抗することを是とするルールができました。プロテスタント教会では用いていない箇所の記事ではありますが、安息日の緊急条項は確認されたことになるでしょう。
 
『牧会者の神学』(1993)という本があります。ピーターソンという、牧師と神学教授の経験者です。本の見返しに実にすばらしい言葉が書かれています。
 
 本書は、牧師の本来的なはたらきとは「聞くこと」で在り、また「神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること」であると定義することによって、牧師の召命を協会運営という宗教的事業経営のごときものに矮小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。
 
如何でしょうか。この本には、「安息日とは創造をほめ讃え、それに注目する日であり、贖いのわざを想起し、それを分かち合う日なのである」と書かれていました。また、「安息日。それは私たちが神の臨在と神のわざを知るために、自分の行為に熱中することから離れて時間と空間を整理することである」とも書かれ、さらに「安息日を守ること。それは、私たちの主のかすかな小さい声を聞きとれるように、私たちの内なる騒音を鎮めることである」とも述べられています。
 
そして牧師であるこの著者にとって、「安息日は月曜日である」とも言っています。ゆったりとした気持ちで散歩をするのだそうです。「祈りと遊び」というような言い方で、ずいぶんとこの問題に触れていますので、関心のある方は、本をお持ちの牧師に相談してみるとよいでしょう。
 

◆教会と安息日

驚くことに、牧師としてのピーターソン氏にとって、日曜日は「働く日」だと述べています。その点、私の目に映る日本の教会の牧師たちも、実情はまさにそうなのだろうと肯けます。
 
そこでここから、普通ならとても「説教」とは呼べないような話をすることになります。お気を悪くすることを承知で、申します。しかし、私は神から使命を受けてこれを語ります。どこの教会関係者も、口をつぐんで言いはしないことを、私のような立場の人間だからこそ、はっきりと告げたいと思います。
 
教会に集まるキリスト者にとって、しばしば日曜日は安息日ではありません。牧師も役員も、そして奉仕に携わる信徒たちも、日曜日は朝早くから、ヘタをすると夜まで走り回っています。日曜日が一番忙しいと言えるかもしれません。牧師の仕事は、ピーターソン氏と同様、日曜日に集中します。もしも、日曜日のことを安息日だと私たちが呼ぶことが正しいなら、牧師ほど、安息日を守っていない人はいないことになります。
 
けれども、牧師ならばまだよいかもしれません。他の曜日に休む機会があります。教会では、月曜日だとか金曜日だとか日を決めて、牧師の休暇としているところが多いと聞きます。また、他の曜日でも、組織の一部として束縛された一日ばかりを過ごすことのない牧師が、通常ではないかと思われます。
 
しかし、一般信徒はどうでしょうか。日曜日だけが仕事の休みだという人もいます。この人は、役員や奉仕の立場があれば、唯一の休日の日曜日に、教会に来て、説教をすること以外は牧師と同じくらいの仕事を強いられます。一日を神に献げています。いったいこの人は、週の内の、どこで休むのでしょう。
 
そういうことで、役員選挙が嫌な人もいます。学校で新学期にPTA役員を決めるときの、あの気まずさをご存じの方もいらっしゃるでしょう。それは困るなどと断わる「正当な理由」がなければ、投票が集まれば決定です。それは困ると訴えても、「決まりだから」と高圧的にはねつけられることもあります。ある若者は、そのために役員とさせられたものの、やがて教会を去りました。それでも、その教会は、自分たちのしたことについて、反省らしきものは何もしていないようです。
 
教会は、一般社会よりも加速度的に、少子高齢化が進んでいます。さらに、人口減少も、社会以上です。人が減る。しかし教会の活動全体はさほど変わりません。となると、一人の肩に載せられる荷物は、ますます重くなります。一人が、教会のあれやこれやの役割を担って「奉仕」させられている現状に対して、はっきりと打つ手を考え実行しない教会に限って、国が法律をつくらないとか、政治家が国民のことを考えていないとか、猛烈に抗議している姿も、もう当たり前のようになりました。
 
以前と同じような活動が、もうできるはずはないのに、気づかないのでしょうか。
 
もちろん、すべてを一緒くたにするつもりはありません。牧師の中にも、多忙な人はいます。教団の事務に就くと大変でしょう。社会事業を展開している教会もあります。小さな教会でも、病人を訪ねて回る人、高齢者の家や施設のところに通う人、様々です。しかし、教団にこき使われているとなると、気の毒です。大した意味のないあちこちの会合に出かける必要に迫られているならば、いまどき企業もコスパや能率のために努力していることから、あまりにも時代遅れのあり方をしている教会の姿が浮き彫りになってきます。
 
キリスト教会は、旧態依然もいいとこなのです。
 

◆奴隷制なのか

もう少し続けましょう。今度は信徒の立場です。平日は過労とも言える勤務で、疲弊した信徒がいます。さらに家事は当然必要です。中には町内会や、学校の役員をしている人もいます。やっと休めた日曜日に、教会に一日拘束されるとします。朝から夕方まで、何かの義務を負わせられています。また、「それは恵みですよ」などと言って、新しい信徒をその世界に引き込む勧誘も上手です。1週間の中で、休む時間など与えられない仲間に、人を呼び込むのです。
 
そんなことはウチではない、勝手に当てはめないでくれ、と言える教会もありましょうが、一つもない、ということはきっとないでしょう。そのときは、教会というところほど、安息日の意味から遠いところもないかもしれないではありませんか。
 
礼拝は神からの恵み溢れる場です。礼拝に出れば、信仰に燃やされ、疲れも吹っ飛びますよ――ええ、建前ではそう言います。そう聞きます。でも、その笑顔は本当でしょうか。試験前の学生に、礼拝に頑張って来たからテストは大丈夫だよ、と信仰ある言葉を投げかける大人もいますが、それは無責任な信仰の押しつけになってはいないでしょうか。建前をつくらせる教会生活とは、いったい何なのでしょう。一度、腰を据えて考えてみるとよいのです。
 
いや、あんたは不信仰だ、と言われるかもしれません。信仰があればみんな幸福の基なのだ、そういうエネルギッシュな教会を大事にしなければ、信仰しているとは言えないぞ。そう言われるかもしれません。でもそうやって、歯を食いしばって奉仕していることは、本当にありませんか。一時「教会疲れ」といったことが、教会関係の雑誌で問題にされたことがありました。他の職場での「燃え尽き症候群」という話題に沿ってだったと思います。しかし、いまそんなことは言われません。しょせん「過労」が社会問題になっても、少し経てば誰も言及しなくなるのです。あまりに慢性的で、改善しようもないのだから。
 
そもそもこの「奉仕」という言葉自体、いやらしくありませんか。給与は出しません。ボランティアしなさい。そういう意味が、隠されていないでしょうか。信仰から当然やるべきことなのでしょうか。そう心から思える人は幸せです。でも、教会の皆が、そうでしょうか。そう自分に言い聞かせて、過労に拍車をかける人は、本当に
 
こういうことが現に起こっている場合、さらに懸念されるのは、その有様の不条理さを、誰も問題にしないことです。誰も何も言いません。役員会で話題になることもありません。言った者が批判されるからです。教会の「タブー」なのです。また、そのような教会に限って、聞くに堪えない説教を話す人が、これで礼拝を遂行していると勘違いしていたり、それだからまた礼拝説教など誰も聞いていなかったりする例さえあります。
 
そうかと思えば、こんな教会もあります。その教会は、祝日には決して教会行事を開きませんでした。そもそも日曜日を、教会に集めているわけです。信徒の中には、配偶者が信徒ではない、という人もいました。日曜日に家族で一人だけ、教会に来ているわけで、それをいわば家族が許していることになります。そうした家庭事情を鑑みると、祝日まで教会に呼ぶとなると、家族の休日を全部奪うようなことになりかねません。教会だけが居場所だ、という人もいるのは確かでしょうが、すべての人が、教会だけを居場所にしているわけではないのです。
 
私は、その教会の方針を、実に健全な考え方だと思いました。家族皆が教会に来ていたとしても、家族でお出かけするという機会が、実は殆どなくなります。祝日くらい、家族のための日を設けるというのは、当たり前と言えば当たり前のことです。しかし教会組織の側の論理からすれば、祝日は教会員を集めやすいから、どんどん行事を用意するのがよいことだ、と思いこむ可能性があります。もう、1年間、リフレッシュの機会も与えないで、信徒をへとへとにしようという魂胆であるかのようにさえ見えます。今の世の中では、こういうのを「ブラック」と形容しているのではなかったでしょうか。そういうことをしている宗教団体を、一斉に「カルト宗教」と蔑視しているのが、まさにその教会であった、ということもあったようにも思えます。
 
その上、教会では、こんなことを教えているのです。「安息日を守れ」と。「十戒」を唱えるプログラムもあります。世の仕事をしないのが安息日だ、これが神の恵みだ、と唱えさせるかのようです。信徒はその足で、元気に翌日から世の仕事や家事その他で、聖書を読む暇もない毎日を過ごしていくことになります。
 
意地悪な言い方ばかり、しているでしょうか。それとも、こういうのを現代の「奴隷制」と呼んでも、差し支えないでしょうか。
 

◆安息、つまり休みを

さあ、ここまでお聞きになって、不愉快な思いをなさったでしょうか。むかついた方もいるかと思います。どう文句を言ってやろうか、と構えた方。あるいは、こいつは馬鹿だ、と憐れみの眼差しを送った方もいるでしょう。偏見にまみれた異常な精神の持ち主は、放っておけばいい、滅びればよいのだ、と冷笑する方もいたかもしれません。
 
瞬時にブロックをしたくなった人もいると思います。以前そうした「牧師」もいましたが、きっと聖書の問題を自分の問題として捉える経験のない方なのでしょう。イエスもまた、そんなことは聞いていられない、と多くの人に背を向けられたことがありました。
 
それでも、あなたの教会には、疲弊している人が、きっといると思います。いないとすれば、その人はすでにその教会を去って、そこにはいない、ということではないかと思います。もちろん、自分のいる教会は、そんなことはない、というところもたくさんあるでしょう。が、ちょっとでも考えてみる機会になれば、とは願います。そして、わずかではあっても、ここまでの話を聞いて、胸の空く思いがした人もいるだろうと信じます。あるいは、せめて胸にいくらかは胸に痛みを覚えた人もいるだろう、と期待しています。
 
これは悪口を言う場ではありません。福音のメッセージであるべき場です。最後はそこに戻るべきです。イエスはこの安息日について、何をなさったでしょうか。
 
イエスは、何かしら機械的な営みですらあるような「安息日」の実情にメスを入れました。律法のエリートたちが自負する安息日の規定を、壊しました。人々を癒やすことは、安息日にしてはならない仕事だとは、ちっとも考えませんでした。安息日は、そんなちゃちな決まりではなかったはずだ、父なる神は、そんなことのために安息日を教えたのではなかったはずだ、と言わんばかりでした。
 
思い出してください。十戒の安息日規定は、まず出エジプト記では、神の創造の安息に関係づけられていました。でもこれを、ガチガチの決まりとして、七日目はなんとしても休むのだ、という枠に入れることに、イエスは反対しました。申命記の十戒では、七日目という前提はあるものの、出エジプトの出来事と関連して説明していました。かつて奴隷だったイスラエル民族が、解放された喜びを伴うものだ、と教えているように思えます。
 
へとへとにこき使われる奴隷の暗いから脱出したことは、さしあたり民にとり喜びでした。その後、荒野の苦しい旅に悲鳴を上げ、モーセに不満をぶちまけるようなこともありましたが、後々になって見れば、長い旅の後に、民族は自由を与えられ、民族のアイデンティティを獲得することができたと言えるでしょう。
 
私たちは、奴隷になるために、出エジプトを果たしたのではありません。疲れ果て悩むために、この世の中から神の国に招かれたのではありません。十戒の安息日は、そのことを強く示しています。ただ、思わぬ奴隷というものがあります。もちろんそれは「罪の奴隷」です。罪に操られ、支配されているあり方です。これは具合の悪いことに、自分はいま罪に支配されている、という自覚を伴わないことがあります。自分では自分のことを自由だ、と思ってのほほんと幸せな気分でいながら、その実、罪の奴隷になっている、という巧妙な仕掛けが隠れていることがあるのです。自分で気づかない支配のあり方は、恐ろしいものです。この世の社会でも、そのようなことが多々ある、と私は見ています。いまここでそれを話すことは控えますけれども。
 
教会で奉仕に励んでいて、実は倒れそうになっている、あるいは精神的に限界にきている、そういうのも、確かに操られている証拠でありましょう。それを、本人の信仰不足だ、などというレッテルを貼る者がいたとしたら、その者も間違いなく、操られていることになりましょう。むしろ、教会が、世から解放され、世での疲れを癒やし、心身ともに休める場であってほしいと願います。
 
安息日を守れ。この神の呼びかけは、罪からの自由であり、束縛からの解放であったはずです。そこに喜びが湧き上がるものであったはずです。ご紹介した『牧会者の神学』の著者は、自分の安息日は月曜日だ、とはっきり言っていました。日曜日ではない、と牧師自身が公言しました。その割り切り方は、悪くないと思います。人間の暦とは関係なく、神と向き合った自分の生き方が、確固たる歩みとなって続いていくのだと思います。牧師でないと、他の曜日をも安息日にすることが難しい場合がありますから、ぜひそこを鑑みるくらいの思いやりは、あってほしいものです。
 
その本の中には、その安息日に夫妻でのんびり散歩する景色が、美しく描かれていました。季節を感じさせる花や草木、風の香りに気づく時間がそこにありました。そんな時間が、誰にも必要なのではないでしょうか。神の創造を心の底から感じるひととき、それが安息なのであり、必要な休みではないでしょうか。
 
空を見上げるゆとりすらない生活が、どうして安息日でありえましょう。どうか皆さま、今日の礼拝の後、空を見上げてください。風を感じてください。花や虫に、目を留めてください。神の創造した素晴らしい世界を体験して、喜びがもたらされることを、切に願っています。それこそが「聖別」です。安息日という、特別な時間を過ごすことなのです。

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