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完璧にしなければ

英語の授業に、ついて行けているでしょうか。無理だったら英語の授業を受けるのをやめようかと……。
 
最近塾に入った生徒の母親が悩みを相談してくる。担当は私である。実に意外だった。その生徒は熱心であり、よくできるからだ。確かに小学校では、聞いたり話したりというのは近年よく指導されている。教科となっているから、きちんと教えられている。ただ、小学校ではライティングについてはあまり強く指導していないようである。そこで、塾では中学校での英語を踏まえて、書くこともバランスよく取り入れている。
 
これがしんどいらしい。とはいえ、その生徒は聞き取りの宿題もよくこなしている。しかし、思い当たるフシはあった。母親と一緒に取り組んだ、と生徒が言っていたのだ。その辺り、当の母親に電話で窺ったとき、尋ねてみた。すると、ずいぶん長い間取り組み、10回以上聞いて、二人がかりで解答しているというのである。それで、英語ができない、と母親が心配したのである。
 
生徒は、きちんとしていかないといけない、だから、分からないところがあってはいけない、そう思いこんでいるのだという。私は、そうではないこと、分からないところは空けてきてもよいことを、丁寧に伝えた。こうして気持ちを解きほぐすことで、母親も次第に安心してくださった様子が伝わってきた。
 
小学校の宿題は、完璧にやり遂げていかないといけない、そう教えられているのかもしれない。そしてまた、それができるような宿題が、概ね出されていると思われる。もちろんその生徒も能力はあるほうなので、学校の宿題は完璧にしているのだろうと思う。それだから、塾に入って、その宿題も、小学校と同様にきちんとやり遂げなければならない、という考え方しかできなかったに違いない。
 
そうした事情を、初めて学習塾に子どもを通わせる親もその子も、知らなかったわけである。こちらとしては、できないものがあるのは当たり前だという前提がある。入試でも満点を取らなければならない、というような考え方は非常識極まりない。また、できないものがあるからこそ、それを克服しようという学習が始まる。どこが分からないか、どこができないか、そのことが「分かる」ような学習姿勢が大切なのだ。その、難しいところに挑戦してゆく、それが学習というものであるに違いない、というのが塾での常識である。
 
実は、ほかにも実例がある。入ったばかりの小学上級生。塾ではすでに新学年の内容をも学び始めている。新しい内容が入ってきた、中学受験の要とも言われる学年である。その生徒は、学校ではきっとよくできていたのだ。しかし塾へ来ると授業が分からない。分からなくてよいのであって、できることから始めればよいのだ。教師も、できないことを叱ることはしていない。だが生徒と親は、宿題も完璧にしなければならない、と思いこんでいる。分からないところは空けておけばよい、と伝えていても、それではだめだ、と思いこんでいる。だから辞めたい。こうくるのだ。
 
100点で当たり前、90点だと残念、それ未満だと何をしているんだ、というような世界から、突然、塾に来たら、文化が違う。当然その考え方のギャップがあるのだが、気づかない。というか、その旨の説明を聞いていない。だから、完全な解答を以て宿題を完成しなければ、とひた走るが、内容が難しいので大変な苦労をする。塾としては、この点を理解した上で、入塾戴きたいと思うし、その点を告知していなければならない、と益々思う。学校でよくできるから塾でも完璧にできてトップになるに違いない、と最初から計画しているケースが、時折見られるのである。
 
完全にできる自分を見せなければ。そういう心理は、珍しいものではない。むしろ、教会生活をする人には、ありがちである。否、殆どの人がそうであるかもしれない。敬虔なクリスチャンの姿を示さなければならない。そのために、とにかく人によく見られることを考慮する。
 
それは第一しんどいことである。そしてなんのことはない、イエスが非難したファリサイ派の人々などと同じである。
 
もちろん、ダメな自分を宣伝するような真似はしなくてよい。だが、できることをして、できないことはできない、というのでもよくはないか。こちらに控える先生は、すべてを教えることのできる方であるし、すべてを委ねることのできる方であるのだから。

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