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イザヤ書が閉じられる

イザヤ66:18-23 
 
「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこれで終わるのです。世界中の人々が集められます。神は、人間の行いと考えをご存じです。相応しい人々がそこに集められます。人々は神の栄光を見ます。神はそこにしるしを置くといいます。
 
誰の目にも、それは明らかになるのです。生き残った者たちを世界中に神は遣わし、主について知らない人々に、神の栄光を告げ知らせます。そうしてエルサレムに、主への供え物を伴ってやって来るのです。生き残った者がいるということは、死ぬ者がいたということを意味します。裁きは、やはり間違いなく起こっているのです。
 
異邦人の中からも、祭司やレビ人を選ぶ、というのは衝撃的です。イスラエルの歴史しか見えていないでいると、これは奇蹟のように見える幻です。かつてあったどんな教えをも超越して、神の壮大なドラマが展開します。人間が狭い了見で思い込んでいたような理知的なものは、すべて吹っ飛んでしまいます。人間の誇るものの、如何に小さいことか。
 
そう、ここには「新しい天と新しい地」が造られています。それは「いつもでも続く」のです。イザヤの表現は、あまり詳しくはありません。メカニズムや情景の描写で飾るつもりはないようです。必要がないと考えているのかもしれませんし、もう興奮の中にあって、それどころではない、というのが正直なところなのかもしれません。
 
但し、概して聖書文化は、見た目の有様を描こうとはしません。イエスの顔も姿も、全くどこにも書かれていないに等しいのです。神は、永遠の礼拝を人から受けてゆくであろう、と言って、預言を受け止める者に、希望を与えます。主の栄光が現れるその日、果たして選ばれるのは誰でしょう。「苦しむ人、霊の打ち砕かれた人」に希望が与えられます。
 
また、主の「言葉におののく人」もそうです。この約束が、イスラエルの民には握りしめられていました。そうしてメシアを待ち続けていた民の中に、救い主イエスが現れることになります。人々がどうだからどうする、というものではありません。神が主権者なのです。神がイニシアチブをとり、すべての権能を示すのです。そこから、永遠が始まります。

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