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一筋の心 (ルカ10:25-37, 詩編86:11)

◆善きサマリア人の法
 
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」
 
ドラマの一場面でありがちな叫びです。飛行機の中などで、急患が出た場合、乗務員が、乗客全体に呼びかけるわけです。しかし緊急を要する局面で、しかも器具も薬品も限られた機内では、治療が十分できない可能性があります。医師がいたとして、名乗り出るのでしょうか。素人なので、専門の方の修正を仰ぎますが、日本の法律では、確かに刑事責任を負わされることはたぶんなさそうなのですが、民事的に損害賠償請求をされることはありうるようです。現実に重病であれば助ける手立てがないことと、訴えられる可能性を秘めているということで、現実に名乗り出ることをためらわせる背景があるように思われます。
 
世界では時に、「善きサマリア人の法」と呼ばれる法が機能しているそうです。緊急場面での医療行為には、責任を問わないということがはっきり決められているというのです。不思議な名前ですが、これは新約聖書の記事に基づいた名称です。サマリア人が。献身的に傷ついた人を助けた、という出来事を、イエスが物語として語ったことに基づきます。今日、私たちはその物語を味わっていこうと考えています。
 
法的にどうだというばかりでなく、この法が認められる文化では、医療行為について一定の感謝の思いをもっているのではないか、と想像します。無責任なことは言えませんけれども。でも日本では、医療従事者のミスについては、かなり厳しい目が向けられているような気がしてなりません。このコロナ禍において、ワクチン接種についてミスがあった場合、そうとう社会は、医療従事者を叩きました。見るからに殺気立って、ワクチンが何本無駄になったとか、別会社のワクチンを打ったとか、新聞やテレビが、そして世間が騒ぎ立てました。そのことを、忘れたとは言わせません。
 
命を救う仕事だから失敗は許されない。取り違えるなどというミスが、あるはずがない。注意不足だ。けしからん……散々な言葉が飛び交っていました。当初はマスクすら入手できない中で、ビニル袋で防護服もどきを自らこしらえ、それ以来常に最も感染の危険のある環境で勤務を続け、自らの感染を防ぐ確実な方法がないままに、日常では誰よりも感染に注意して自由な生活もなく、さらに家族までが社会から差別を受けるなどする中で、ひたすら医療を続けていた人々。一時は感謝の意を表して拍手、などという流行もありましたが、ひとたびそれが冷めると、世を挙げてのバッシングでした。
 
複雑な医療事務と薬品の調達にも奔走していた医療従事者たちは、すでに体力と気力の限界を越えて奉仕活動をしていたに等しい医療従事者のことを、世間は冷淡に虐げ続けました。多くのキリスト教会が、彼らのために祈りはしなくなってしまいました。
 
◆譬え
 
すでにお読み戴いたので、テクストを改めて細かくは繰り返しません。イエスは、突如ある譬えを語ったわけです。あるユダヤ人がエルサレムから、エリコに向けての寂しい山を下っているとき、追い剥ぎに襲われます。半死半生で転がっていたその男を、最初に通りがかり発見したのは、ユダヤ教の祭司でした。ユダヤの地域は、ユダヤ教という宗教により治められていましたが、その宗教権力のリーダーと言ってよいかと思います。同一視はできませんが、プロテスタント教会を考えると、牧師と呼んでよいかと思います。
 
祭司は、傷ついた同胞を認識すると、そこから距離をとって、恐らく見て見ぬ振りをして通り過ぎました。続いて、レビ人も通りかかりましたが、同様に通り過ぎます。しかし、旅の途中だったサマリア人が通りかかると、気の毒に思う気持ちから、怪我人に近寄り、傷の手当てをします。自分が乗っていた家畜に彼を乗せ、宿屋に連れて行くと、銀貨を差し出して、怪我人を委ねた、というような物語です。
 
ルカの譬え話には、その現場が思い浮かぶような物語性があります。分かりやすいものが多いと思います。放蕩息子の譬えは、キリスト教会の伝道集会の定番だとも言われます。今回の善きサマリア人の譬えも、たいへん有名です。礼拝説教でも取り上げられることがよくあり、信仰生活の長い人には、最初の部分を聞いただけで、もう終わりまですっかり景色が見えてしまうことがあるのではないでしょうか。いわば、お決まりの譬え話なのです。
 
私もまた、そんなに大した話をするつもりはありせん。ただ、私にこのたび神が見せた景色を、提供するのがここでの役割です。聖書の言葉が、魂の中で立ち上がってくることができたら、と願いつつ、皆さまと分かち合うことを望んでいます。
 
◆サマリアというシチュエーション
 
ここで、サマリア人という特別なシチュエーションが、気になります。それは、この譬え話の重要な鍵となっています。
 
サマリア人は、新約聖書の福音書で幾度か登場します。歴史的には、旧約時代に端を発し、基を辿ればかなり古くから、ユダヤ教信仰からは問題視されている「サマリア」という広い区域に住む人々のことです。
 
ダビデの息子ソロモンまでは、統一イスラエルが繁栄していました。紀元前千年頃のことです。しかし、ソロモンの息子の時代に、北の十二部族が、エルサレム神殿を抱えるユダヤの王朝に背を向けて、エルサレムとは分かれて、北王朝をつくります。北イスラエル王国と称されるこの国は、エルサレム神殿に人々が向かわないように、子牛の偶像を祀る礼拝所を造ったといいます。これが、エルサレム神殿における主なる神を礼拝していた南ユダ王国からすれば、とんでもない偶像崇拝のように見えました。
 
その後、紀元前8世紀に、アッシリア帝国により、北イスラエル王国は滅ぼされます。アッシリアは、その地域に、厄介な民族が居残ることのないように、まず有力者を捕囚という形で国土から連れ去りますが、もうひとつ、抜本的な方策をとります。入植者政策です。イスラエルの土地に外国人が次々と住み映ります。土着民との結婚が始まると、元来のイスラエル人の生物学的な純粋性が、どんどん薄められていくのです。
 
これもまた、ユダ王国からすれば、とんでもないことでした。もはやイスラエル民族の血統すら失せてしまったサマリアの土地は、信仰的にも民族的にも、もはやイスラエルの歴史に名を刻んではならないような存在となった、と理解されました。イエスの時代もなお、その伝統の中にありました。真っ当なユダヤ人は、サマリア人とは口をもききません。信仰的にも、腐った存在だとして、見下していました。聖書も、彼らはモーセ五書しかまともに知りません。それも怪しいバージョンだなどと言って、神を信仰しているなどとは認めない、と考えていたわけです。
 
先の譬えで、追い剥ぎに襲われたユダヤ人は、災難でした。そのユダヤ人の宗教的リーダーたちは、傷ついた同胞を、助けて然るべきでした。それが、ふだん説いている、聖書のエッセンスであり、神の前に人を助けるという、義務でもありました。が、遠く離れた側を歩いて、通り過ぎました。そこへ現れたのが、倒れているそのユダヤ人からすれば、見下すべきサマリア人。精神的にユダヤ人のほうが加害者的な立場にあり、サマリア人は被害者側にあったとしますと、被害者側が加害者側を助ける、という構図がここにつくられていることになります。
 
この譬え話を聞かされているのは、場面からすると、「律法の専門家」であるようですから、いわば加害者側の人間であることになります。尤も、聞いているその人は、加害者側に自分がいるなどとは、全くないはずです。
 
◆人助けの構図
 
サマリア人のことを憎らしく思い、虐げるような側の人を、サマリア人が助けた。さあ、クリスチャンも、このサマリア人のように、人を助けましょう。教会学校で、子どもたちに話しても、この譬え話は、伝えやすいものと思われます。私たちも、困っている人を知ったら、助けてあげたいですね。子どもたちは、そうだね、と肯く。よくある光景です。いやいや、これは人助けの勧めではありません、今度は子どもたちのいない場での礼拝においては、このような形で、「実は……」のように話をするのが一般的だとも見なされているようです。
 
もちろん、人助けをすることの教えが、決して子どもじみているとは私は思いません。むしろ、人助けをしないような時代、口先だけで助ける気持ちはあるのだと弁解するような時代には、サマリア人のようにしたいものだという、真摯な問いかけが必要ではないかと思います。
 
キリスト者は、元来そうした慈善運動について、すばらしい歴史を有しています。岡山孤児院を創設した石井十次(1865-1914)、貧民と共に暮らした賀川豊彦(1888-1960)、孤児の命を守った沢田美喜(1901-1980)など、有名な人々が居並びます。起業家や教育者の名を呼べば、やはり人助けという意味で輝かしいクリスチャン人生を歩んだ人が、たくさん挙げられることでしょう。
 
キリスト者として、こうした先輩方の存在は、眩しく、また誇らしいものでもあります。まるで、自分の出身校に総理大臣がいたのだ、などといったふうに、自慢したくなるような気もします。でもそのうちに、なんだか自分も、人助けをしたサマリア人に身を重ねてしまっていやしませんか。潜在的にでも、人間には、そんな心理があるのだろうと思います。確かに、立派なクリスチャンの後継者なのだ、という自負が、端的に悪いなどとは考えるべきではありません。
 
しかし、中には、自分はレビ人のようだ、と感じる経験をもつことが、あるかもしれません。詳しくは述べませんが、教会に行く途中、山道で、車が困ったことになっているのを選ぶ。目撃したのですが、私は助けようともせず、素通りして行ったことがあります。急いで行かねばならない理由はあったのですが、私は自分が、この譬え話のレビ人であるのだという心苦しい思いに、長らく苛まれたものでした。
 
また、いまひどく苦労している人や、傷ついている人にとっては、自分はこの瀕死のサマリア人なのだ、という思いで聞いている人が、いるかもしれません。そしてやってきたサマリア人が、イエス・キリストであるという思いで、主に助けられる自分の姿を、そこに見ているということも、当然ありうるだろうと思います。こうしてイエスを信じるようになるというケースも、きっとあるでしょう。
 
◆譬えのテーマ
 
でもやはり、この物語は、ただの人助けで終わるようなものではないだろう、と思います。それは、この話がそもそも語られたのはどういう背景か、を考えることによって、気づかされます。
 
事の起こりは、律法の専門家がイエスに問うたことでした。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25)とは、当時の大きな関心事だったことですが、福音書はこれを、「イエスを試そうとして言った」(25)と説明しています。
 
さらに、この質問の前に何があったか、を気にしてみますと、イエスが、突如何かに取り憑かれたようにして、父と祈りの中で語らっていた場面を見出します。その祈りに続いてイエスは、弟子たちの方を見ます。いま各地への派遣から戻ってきた弟子たちのようです。彼らを労う気持ちもあったことでしょうが、それよりも、「彼らだけに言われた」(23)というのが、ひとつの注目点です。そしてイエスの弟子たちだけが、とてもすばらしいものを見ているよ、と告げたのです。
 
律法の専門家は、どうしてイエスの弟子たちだけが、神の特別なものを知ることができるのか、不愉快に思ったことでしょう。自分たちは、神の戒めを守り、清く正しく生きている。しかし、律法を正しく守り行う生活を推奨する自分たちをさしおいて、イエスの部下たちだけが特権をもつことは、けしからん。そう思ったかもしれません。
 
律法の専門家はイエスに尋ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。永遠の命というものについても検討する必要はあるでしょうが、ここで問題は、「何をしたら」にあるだろうと思います。イエスの弟子で「ある」だけで特権があるはずはなく、「何をしたら」という点を大切にしない律法理解など、彼らには考えられなかったはずです。
 
これに対して、イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26)と逆に問います。時の問答においては、何かを問うと、それに対してただ答えるだけではなく、逆に質問者に問い返すという方法が、ひとつの型であったものと思われます。質問者もそれに対する心構えはありました。律法に書いてあること、それは得意領域です。「何をしたら」よいか、それはこうすることです、と自慢の知識を披露します。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27)と、ドヤ顔で答えたのではないかと推測します。旧約聖書の律法の中でも、根本的な、すばらしい解答ではあるだろうと思います。
 
イエスもまた、その答えが「正しい答え」(28)だと認めます。そして、「それを実行しなさい」(28)と勧めます。恰も、この専門家が、そんなことはしていなかったかのように。「何をしたら」と切り札を出したつもりの専門家は、カチンときたのではないでしょうか。自分はちゃんと実行していますよ。それとも、神を愛してなどいないとでも仰るつもりですか。あるいは、隣人を愛してなどいないとでも? いったいこれ以上、誰を愛すればよいのですか、と不満だったかもしれません。
 
イエスに問います「では、私の隣人とは誰ですか」(29)と。福音書記者は、これを「自分を正当化しようとして」言ったと説明しています。ここでイエスが、このサマリア人の譬えを話し始めたのでした。つまり、この譬えのテーマは、「隣人とは誰か」という問いに答えるためのものであり、また「何をしたら」よいのか、という問いに答えるものでもあったと捉えてよいと思います。
 
◆他人事とは思えない
 
単に人助けをせよ、それを言いたくてイエスがこのような、手の込んだ話を持ち出したのではないようです。もちろん、登場したサマリア人というのが、律法の専門家が求める、永遠の命を得るべきことを「した」のであろうことは、想像に難くありません。しかし、それ以上に、サマリア人の言動には、注目すべきところがあるように感じます。
 
33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、
34:近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 
「気の毒に」思ったのです。この言葉は、新約聖書を説く説教者がしばしばギリシア語で紹介する、あの語です。「腸がちぎれるような思いで」というような構造の語で、日本語ならさしずめ「断腸の思い」とでも言えば近いのではないかと思われます。ただ心で気の毒に、と思ったのではありません。全身で我が身のことのように苦しみを覚えることです。胸が締め付けられるように、あるいは、当事者意識を強く覚えて、というような感じでもあるでしょうか。私の考えですが、「とても他人事とは思えず」という理解はどうでしょうか。落ち着いて様子を見れば、この怪我人は、サマリア人にとって、何の関係もない他人です。放っておいたところで、何の責任も負わされることはないでしょう。けれども、見知らぬ人であっても、その災難を、「とても他人事とは思えない」のだった、と理解してもよいだろうと思うのです。
 
ルカは、このような当事者意識を大切に思っている記者であろうと私は思います。先般も、重要なこととしてお引きしました、ルカによる福音書の6章の決定的な記事は、こうでした。
 
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36)
 
聖書協会共同訳ではこうなっているのですが、新共同訳などは「憐れみ深い」という言葉で訳していました。これは私にとってもそうですし、筆記者ルカにとっても、この福音書の大きなテーマであるだろう、と私は捉えています。このサマリア人というキャラクターは、ルカのひとつの理想とする、憐れみ深さを持ち合わせた人物として描かれているのです。もちろん、それはある意味でイエス・キリストのことだ、と私たちは見てもよいのです。しかしここではいま、「隣人の条件」であるとともに「何をしたら」よいのかという点に、直接関わるものとして、「憐れみ深さ」がこのサマリア人の中にあった、としているのではないか、と私は思います。正に、「とても他人事とは思えない」気持ちです。
 
ユダヤ人のエリートである律法の専門家は、律法の規定を守り行うことが、最善のことだと思い込んでいたことでしょう。その律法というのは、ユダヤ教の伝統の中にあり、自分はその組織の中に確かな地位を有している。この自負あればこそ、するべきことをしている自分への自信があったものと思われます。
 
ところが、イエスはこの律法の専門家に痛烈に分からせるために、サマリア人を持ち出しました。サマリア人というキャラクターを用いたために、そのサマリア人が唯一、話の中で善いことをしたことについて、苦虫をかみつぶしたような思いをしなければならなくなりました。イエスが「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36)と問うたときに、彼は、「サマリア人」という名前を口にすることさえ、悔しく思いました。譬え話とはいえ、善い人間のことを「サマリア人」などという名で呼ぶことを、彼のプライドが拒んでしまったのです。そのため彼は「その人に憐れみをかけた人です」(37)という言い方でしか、答えることができませんでした。そう、「憐れみ」ということが、この問答の決定的な要因であるということが、この対話からも窺えるのです。
 
◆一筋の心
 
それともうひとつ、「近寄って」にも着目します。もちろんこれは、祭司やレビ人が「その人を見ると、反対側を通って行った」のと対照的な表現です。しかし、「近寄って」行くことは、それだけではありません。近寄って行かなければ、応急処置はできません。宿屋に連れて行くこともできません。近寄らなければ、助けることはできないのです。
 
最初のユダヤ教のリーダーたちは、事態を一目で判断できただろうと思います。よく説明されるように、それが死体であった場合、死体に触れた者は律法では汚れた者と見なされるために、彼らは公職を休まなければならなくなります。この新型コロナウイルス感染症の時代においては、十日間などの隔離生活を強いられることとなります。いまの私たちは、そのための休業補償があてがわれることになっていますが、小さな企業や自営業ではそうしたことができるようには思えません。もちろん支援金制度はあります。しかしそのために厄介な手続きがありますし、出たからと言って、それが十分な補償となっているかは分かりません。祭司もレビ人も、厄介事に巻き込まれるのは嫌だった、という説明がこの譬えの核心を指摘しているかどうかは、私のような者には不明ですが、面倒であったことは確かでしょう。そして、そのような「面倒さ」を、私たちはしばしば、何かを「しない」ことの言い訳としがちではないでしょうか。問い直してみる必要があります。
 
ここで、傷ついた人が倒れている現場を通りかかった、三人の「歩き方」に注目してみます。最初の二人は、対象をいわば横目で見ながら、距離をとって歩いています。何か大切な案件、大切なものを確かに目に映しながら、また心の中で、これは関わるべきものだ、と気づいていながらも、距離を置いて、横目でのみ見ています。「見て見ぬ振り」というのは、そういうものなのでしょう。
 
これに対して、サマリア人は、横目で見ていることができませんでした。傷ついた人のことしか考えられませんでした。その人を真っ直ぐに見ながら、「近寄って」行ったのです。それは、胸が締め付けられるような気持ちで、とても他人事とは思えないために、「近寄って」行った、ということです。それをイエスばかりでなく、あの律法の専門家自身も「憐れみ」だと認識しています。憐れみの故に、「近寄って」行ったのです。
 
先に私は、自分が痛めつけられている人は、自分がこの襲われた人で、助けてくれたサマリア人がイエス・キリストを表している、と思うだろう、と申し上げました。けれどもいま、私は違った捉え方があることを提言します。なぜかというと、十字架の上で傷ついて、ぼろ雑巾のように吊されている、イエス・キリストの姿が、私には見えるからです。
 
そこに、傷だらけのイエスがいる。しかも、その傷は、私がつけたものです。私があの群衆とともに「十字架につけろ」と狂ったように叫び、その故に死刑へと追いやってしまった、その方の血と苦痛とがだらだらと地に落ちているではありませんか。加害者は、たとえ直接的ではなくても、紛れもなく、この私なのです。私は常に、そう思っています。
 
でも、たとえそういう思いが、私たちに強くなかったとしても、そこに、十字架の上で傷ついたイエスがいるのは、確かです。このイエスが確かにそこにいるのに、イエスを横目で見ながら、通り過ぎることが、できるでしょうか。むしろ真っ直ぐに近づいていく者でありたいと思います。そう、横目で通り過ぎるというのは、この世の人です。イエス・キリストの話は聞き知っている、そして十字架に架けられたということも分かる。しかし、それが自分と何の関係があるのだ、と遠く離れて通り過ぎるこの世の人が、いかに多いことか――。
 
いえ、そんなことを言うために、私はこのサマリア人の記事をお開きしたのではありません。
 
善きサマリア人の譬え、知っているよ。新約聖書、うん、読んでる。教会にも行っているよ。聖書の知識も増えてきた。イエスはこうしたんだよ。パウロはこのように書いているよ。ああ、そう言えば聖書にはこのように書いてあるければ、実はそうではないんだって。これこれは本当のことらしいが、これこれは実際にはなかったらしい。譬え話もあるね。それはこんな意味なんだよ……。
 
ご立派です。よくご存じです。しかし、この人は、イエスを横目では見ていますが、イエスから離れた反対側を歩いて通り過ぎているのではないだろうか、と私は問いかけたい。イエスに駆け寄ろうとしたことがない、イエスのほうに「近寄って」行くことがない、ただイエスを横目で眺め、イエスのことを話題にしながら、通り過ぎているのではないだろうか、と問いかけてみたいと思います。
 
聖書の説明を、論理学や言語学や文献学の知識を用いて、見事にやり遂げるようなことが、できない人がいます。それでも、ひたすらイエスに向かって、駆け寄る人は、たくさんいます。コロナ禍における医療従事者は、長く不自由な生活を強いられつつも、この白衣が自分の使命だとして、危険の中で淡々と仕事を続けています。お医者様はいらっしゃいますか、と問われなくても、「ここにいます」と自分の使命を貫いています。世間の差別を受けながら、また、失敗について厳しい眼差しや時に訴訟さえ受けながら、いわば「世のため人のため」に献身的に働き続けています。そこに苦しんでいる人がいれば、ただ「近寄って」、できる限りのことをしています。言うなれば、一筋の心で、傷ついた人を助けようとする人々が、そこにいます。
 
イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37)と言い、この場面が締めくくられました。医療従事者でない私は、医療行為はできません。けれども、一筋の心で、誰かに近寄ることは、きっとできるチャンスがあるでしょう。現実に人助けができるかどうか、それを問題にしているのではありません。イエスのもとに、一筋に駆け寄って、主のもとに近づく、その思いがあるか否かです。イエスこそ、第一の「隣人」であり、友であり、そのイエスに対してこそ、まず「何をしたら」よいか、の答えがあるはずです。律法の専門家の答えの第一にだって、「あなたの神である主を愛しなさい」(27)が掲げられていたではありませんか。私たちは、まず第一に、イエスのもとに向かい、近寄ればよいのです。それから先のことは、十字架のイエスが、きっと教えてくれますから。

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