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信仰深そうに見せていても

ホセア6:1-6 
 
「さあ、我々は主のもとに帰ろう」と聞くと、主に対して誠実な民の声のようです。主は癒やし、包んでくださるという信頼が、ここにあります。「主は主は二日の後に我々を生き返らせ三日目に起き上がらせてくださる」とは、イエスの復活を預言しているかのようではありませんか。イスラエルは確かに、主に背く姿勢を見せていました。
 
しかし、主を覚え、主が立ち直らせてくださると信じていることを表明している、そう受け止めれば、これは麗しい言葉であるように見えます。「我々は主の前に生きる」のですし、「我々は……主を知ることを切に求めよう」と言いますから、いかにも信仰厚い声のように聞こえてきます。主は「曙の光」であり、「春の雨」であるとも喩えられています。
 
まことに、人間にとって都合が好い主です。教会は、ひとつまちがうと、至って自分中心になってゆきます。これが福音だ、とひとの心を釣るような誘いをかけてきますが、それは語る自身をも欺いていることには気づきません。互いに「だよね」と安心するような「福音」を確認し合っているのが教会の実態であるとしたら、怖いものです。
 
それは神からの道とつながっていないが故に、人間同士の空しい慰め合いに過ぎないのです。ホセアは、そんな自慰行為は「はかなく消える露」だと吐き捨てています。主は、このような者を打ち殺すと言い切りました。さあ立ち帰ろう、とにこにこと言い合っている人々が、形だけのいけにえを献げてみても、ちっとも神の心には響かないでしょう。
 
というのは、そもそも神とのつながりを欠いているからです。ホセアの預言からして、彼らの「主を知ろう」の空しさを一刀両断にしています。「神を知る」というのはそれとは全く違います。神の名を口で言っても、偽りの役立たないスピーカーは、害悪でしかなく、裁きの対象にしかなりません。自己愛からそれに陶酔している場合ではないのです。

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