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私が苦しめたのだ

イザヤ53:4-8 
 
苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。
 
しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病に冒されたのだ、と見下ろしています。何故この人が刺し貫かれたのでしょう。私が背いたからです。私が過ちを犯したからです。それでこの人が打ち砕かれました。しかも、それだけ懲らしめをこの人が受けたからこそ、私は平安を受けました。
 
この人の傷が、私を癒やしました。なんという不条理な構図でしょうか。このような「私」が、もしも世の中の人物Aであったら、私は、そして「私たち」と称する世間一般の人々も、一斉に激しくAを糾弾したことでしょう。ダビデが、自分の羊を惜しみ貧しい者の者の大切な羊を奪った男を、そいつは死刑だと叫んだように。
 
しかし預言者ナタンはダビデに、「それはあなただ」と指さしました。ダビデはそのとき初めて、自己認識をしたのです。この酷い仕打ちを行っていたのは、まさに自分だという姿を見たのです。これを知ったとき、ダビデは悔います。あの悔恨の詩の中に、その心情がはっきり現れています。私もまた、その心情を我が事として覚ります。
 
私はさまよい、滅びの道を転がっていました。その過ちのすべてを、主はこの人に負わせました。この人を私が虐げ、苦しめました。痛めつけた者は、あくまでも主語は「私」でなければなりません。しかし、この人は抵抗をしません。この人は「私」というものを主張しません。屠り場に曳かれていく小羊と同じでした。
 
私が不法に裁きました。私が、この人を殺しました。このことに気づくのに、私は長い時間がかかりましたが、気づかなかったのは、必ずしも私一人ではありません。凡そ人間は、誰も皆、当初は分からなかったのです。苦難の僕の歌の、ごく一部だけを取り上げても、いまここに見れば、痛恨の極みを覚えることができます。それが、救いへの道なのです。

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