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主を忘れないように

申命記8:11-20 
 
主を忘れることがないように。これが主眼です。「戒めと法と掟とを守りなさい」ばかりが目に入ってくるかもしれません。神に従え、という矢が降ってくるのを覚える心理もあるでしょう。でも、主を忘れてはいけない、ここが中心です。今の自分たちの生き方が、どうして支えられているのか、考えてみるように。申命記が誘うままに動きましょう。
 
確かに「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ」たのは主でした。しかし主は、「あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった」のでした。つまりこれは、主が「あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするため」だったのです。
 
今日のあなたの姿は、主によるのです。でも、人は思い違いをします。この成果は、自分の地位や財産は、自分の手で得たものだ、と思うようになります。これをキリスト教世界では「自分に栄光を帰す」と言います。神など不要だ、という原理を立ててしまいやすいのです。自分の力を誇るとき、人は神を忘れます。だから言います。主を思い起こせ。
 
主がエジプトから導き出し、私に力を与えてくださったのです。その故に今の生活があります。力のある者、生活に困らない者が、主からその心が遠ざかりやすいのです。貧しい者、自分一人ではまともに生きてゆけない者のほうが、間違いなく主を頼るでしょう。主を忘れるなどということは、その人にはありえないことでしょう。
 
主を忘れた者はどうなるでしょう。自分を神とするのだ、と見る人もいるでしょう。が、えてして他の神々に従ってしまうものです。自分を神としていると見なされると傲慢のレッテルを貼られます。それで、何かを崇めているようなポーズをとるのです。これは、聖書が告げる滅びの道にほかなりません。この警告は、今なお生きています。

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