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キリスト賛歌と復活

フィリピ2:6-11 
 
「~しなさい」という形で勧めることの多かった、パウロの口調が変わります。聖書協会共同訳では、ここが詩のような形になるようにセットされています。特別に目立たせる効果があります。「キリストは」で始まるこの一連の教義的な内容は、「キリスト賛歌」と呼ばれることがあります。信仰が実に美しくまとめられているものだと驚きます。
 
イエス自身は、もちろんこのことを口に上らせることはありませんでした。イエスの側からは言えない、人間の言葉です。イエスに出会い、イエスを信じ称える人間の側からしか発されない、数々の言葉が並んでいます。しかも、それが美しいのです。キリストは神の形。でも、神のままであろうと固執せず、己れを無にされたのでした。
 
なかなかできはしませんが、時折そのような人がいた話を聞きます。しかし僕の形をとった、というのは、人間と同じものとなったことですから、人間にはできるわけがありません。正に人間の形で私たちの目の前に、私たちの歴史の中に現れ、へりくだりの極みを示しました。十字架で殺されるという死に至るまで、従順を貫き通しました。
 
それは、イエスの、パウロから見ての有様でもあったことでしょう。でも研究者はこれを、教会で一般に言い定められていた信仰告白のようなものであった、と考えているようです。つまり、パウロ個人の捉え方というわけではなく、教会での一般的な理解であり、信仰である、ということです。確かに、ここには実のところ「復活」が登場しません。
 
「神がキリストを高く上げ」が復活を意味しているのかもしれませんが、教会の信仰告白であったのなら、復活を強調しないのは不自然です。また、パウロ自身の信仰なら、コリント書で復活を熱く語ったパウロはどこへ行ったのか、と思います。「イエス・キリストは主である」と、すべての舌が告白し神を崇めるのは、誰の信仰だったのでしょうか。

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