見出し画像

タトエバ4 3年 -ALSだった母と暮らして-




3年  23年1月21日


発症の診断を受けてからまもなく3年になる。手足から不自由にゆっくりと自分の体を思うように動かせなくなってきた。気づきは、歩くのに軽く足を引きずってしまうような感覚や、つまづきやすくなったことに、違和感を覚えたところからだった。家族には知らせず、しばらくひとりで原因を探す期間があった。病気を診断されるその面談になってはじめて、父と妹が母を付き添っていった。東京の兄はその夜ようやく、残業合間の夜食を済ませた戻る路上で、妹からの電話で病気を知った。


ぼくが設計事務所を辞めたのが20年の春で、その春先のことだった。翌年の春、4月にぼくは東京を出て福島に帰る。はじめの1年はまだ、母はごはんを作っていたし自分で歩いていた。できることをできるだけ、いける限りいけるところまで、日常の暮らしのひとつひとつをその手でしっかりと確認するようにして過ごしていた。だからだ。ぼくは甘く考えていた。彼女がどのような思いで毎日を生きていたのか。彼女がひとつひとつを手放して諦めていくしかない日々にどう向き合おうとしていたのか。どんな思いを抱いているのか。彼女のことを自らのこととして共有しはじめるのは、ようやく21年の正月になってからだった。




病気の発症から1年半。病気の告知から1年弱。お正月に東京から帰省して例年のように過ごす、訳にはいかなかった。毎年作る母のおせち料理は、僕の手で、監督の指示を受けながらのものになった。キャスター付きのスツールを手押し車代わりにして、母は隣に立つ。長くはそうしていられなかった。新しい生活のために手に入れたリクライングソファに座ってすっぽりと収まってしまうと身動きができなくなる。同じ姿勢で動けなくなっていく自分をまざまざと思い知らされるようだった。ただただいつも見ていた箱根駅伝、正月のテレビ番組が、同じには見れなくなってしまうようだった。

母はひどく落ち込んでいた。心の内が溢れ出していた。これまでに見せなかったもの。少なくとも東京に離れて暮らす僕は知ることがなかったものだった。それは間違いなく、家族がともに抱えてあげなければならないものだった。1人ですべてを背負うには重すぎるものだった。呑気だった僕はようやく気づく。

母と話した。とにかく前に踏み出してみようと。いまに行き詰まって、これからに閉塞しているように映る母の、背中を押してあげたかった。母は凛々しい人だから、僕たちがそうしなくてもまた前に進みだしたはずだった。それでも、母をこんなにも悄気させるくらい、抱える病気はこちらの想像を超えていたんだと思う。この病気は僕が母とともに抱えるものになる。それがようやくはじめて自分のものになったときだった。

明日、ケアマネージャーさんを呼んで話をしよう。これからを前に進めて、動かしていくために。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?