渡邉貴之

3年、母と母の病気(ALS)と共に暮らした。家で最期を看取るまで、そして、その後を綴る…

渡邉貴之

3年、母と母の病気(ALS)と共に暮らした。家で最期を看取るまで、そして、その後を綴る。住まいは福島県福島市。

最近の記事

タトエバ12 起きて、寝て -ALSだった母と暮らして-

24年1月17日  起きて、寝て ハイバック式のベッド、上半分を45度くらいまで上げる。寝ている母の右側から、左手を首の後ろを通すようにして抱え、腕に頭を乗せて包むように支える。右腕は奥側から膝の下を抱えるように、膝を曲げさせてこちらも抱え込むようにしたら、腰の横の辺りを視点にして、頭と上半身を抱え上げながら、膝と下半身を手前の方に引き寄せながら、大きく回転するようにして体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。車椅子はブレーキを外して、ベッドの足元の方から寄せる。ベッド側にな

    • タトエバ11 思い込み -ALSだった母と暮らして-

      23年4月18日  思い込み 自分に映ることと自分以外に起こっていることに、辻褄合わないずれが生まれて、自分の方が不安定になる。母に起こっていることが、自分を作る認識をはみ出して捉えられなくなることに、一体どうすればよいのか、把握できないことに心がざわついて落ち着かなくなる。心のバランスを欠いているために不安が湧き出てくる。そうなった自分を受け入れないという方法で不安定を解消しようとすると、自分以外のほうにバランスを崩す原因があるのだと責任を押し付けてしまう。その態度は

      • タトエバ10 素直に -ALSだった母と暮らして-

        素直に  24年1月16日 手放していく。自分が、という理由を持ち出して、大抵は手放していく。 母と暮らす。手にするのに理由はなかった。それはただ素直に自分はどうするかを手にしただけ。母の病気を知らされ、東京で生きることはもう終わらせるとすぐに思った。そう決める前からすでに、設計事務所で働くことは終わらせようとしていた。福島に戻ろうとしていた。社会が可笑しくなり始めてたときに、都合良く事務所の所長から辞めてくれないかと持ち掛けられた。様々な理由が重なり合って、決断をさ

        • タトエバ9 地域福祉 -ALSだった母と暮らして-

          母は病気になってから、それまでの暮らしを終わらせ、そばにあったものを順に仕舞いはじめた。人との関係だって同じく、病気に掛かっていることを知らせた相手はほんの一部だけだった。母が病気になってから、母の世界は小さくなっていった。終わりに向けて片付けようと、自分というものが消えてしまいやすいように繋がりを解いていったようだった。 それでも、母が病気になったからこそ、はじまっていく世界、出来上がっていく世界が表れてきた。病気を理由にして、繋がりはじめる人の関係。それは母が母だという

        タトエバ12 起きて、寝て -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ8 入浴 -ALSだった母と暮らして-

          入浴  23年3月31日 あっという間に設えられた湯船に横たわってうっとりとしてる。頭を、体を洗ってもらうのが気持ちよくて、普段見たことがないような表情が浮かんでる。訪問入浴サービスを開始してみた。お風呂に入れてもらえるサービスがあると聞いて、どんなものかと少しの不安を抱えながらだったが、でも、とにかくやってみてよかったと母の顔を見て思う。デイサービスで週に3回入浴させてもらっていたものが、安全に座らせておくのが難しくなったと言われ止めることになった。体をきれいに保つ、

          タトエバ8 入浴 -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ7 繰り返し -ALSだった母と暮らして-

          これは、母が死んだ後の書き記しだ。 ここからは、母と暮らしていたときのことばと、母がいなくなった後のことばを並べていこう。 終わりに向かっていくその暮らしは、どうにもできないものに因われるのではなく、どうにかできることを手繰り寄せていくように日々を過ごしていくことだった。終わりは定まっていても、終わり方は定まってはいない。それは見定めることができるものではない。だからこそ、いまに出来ることを手放さないように暮らしていこうと、母と家族は心持ちを共有していたと思う。 終わり

          タトエバ7 繰り返し -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ6 やさしさ -ALSだった母と暮らして-

          やさしさ  23年3月1日 21年の正月。母は落ちていた。ソファに収まっているばかりの自分に弱っていた。家事ができなくなり、正月のテレビ番組を眺めていることしかできず、傍から見て心が凹んでいるのが痛いように分かった。大袈裟に言えば、改めて希望が見当たらなくなっていたんじゃないか。だから話した。母と話す、その後続いていく包み隠さない言葉のやり取りがそこからはじまったと思う。内に内にどんどん小さくなっていくようないまを受け止めたうえで、そして、そこから外へひっくり返すような

          タトエバ6 やさしさ -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ5 介助 -ALSだった母と暮らして-

          介助  23年 2月 1日 よおく見る。観察し、情報を掴まえようとしている。そして、人の動かない体を動かすために、触れ、返ってくる力を量り、体を抱えるその手応えから、情報を得ようとしている。言葉がはたらく範囲が狭まったときに、補間する媒体と手段の役割が大きくなってくる。非言語のコミュニケーションがクローズアップされ、その範疇が広がっていく。コミュニケーションという目的に対して、手段が制限されるときに、「見る」や「触る」の解像度がこれまで以上に高まっていく。「見る」は「観察す

          タトエバ5 介助 -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ4 3年 -ALSだった母と暮らして-

          3年  23年1月21日 発症の診断を受けてからまもなく3年になる。手足から不自由にゆっくりと自分の体を思うように動かせなくなってきた。気づきは、歩くのに軽く足を引きずってしまうような感覚や、つまづきやすくなったことに、違和感を覚えたところからだった。家族には知らせず、しばらくひとりで原因を探す期間があった。病気を診断されるその面談になってはじめて、父と妹が母を付き添っていった。東京の兄はその夜ようやく、残業合間の夜食を済ませた戻る路上で、妹からの電話で病気を知った。

          タトエバ4 3年 -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ3 ALS -ALSだった母と暮らして-

          ALS  23年1月1日 Amyotrophic Lateral Sclerosis アミオトロフィック ラテラル スクレローシス 筋萎縮 側索 硬化症 運動神経細胞(ニューロン)において、シグナル伝達経路の活性化にはたらく部分に、ある因子が結合することによってはたらきが変更になり、活性化を抑制することができる。その因子が結合を変えてしまうことで、抑制がはたらかなくなり、活性が行き過ぎて炎症が慢性的になり、終いには細胞の死がやってくる。脊髄を通る側索が細胞の死によって縮小

          タトエバ3 ALS -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ2 暮らし2 -ALSだった母と暮らして-

          暮らし2  22年11月11日 父のためにアクションボードを作った。 声にするのが難しくなってきた母と、耳の悪い父が上手く会話をできずに母が怒り出すのを、間に入って取りなすのにこちらもうんざりするのが毎度で、ほんとうにどうしようもない。 分からないのに分かったふりをする。分からないことに平気でいられる。自分は分かっていると、分かることができていると錯覚しているから、分からないままの自分を省みて、修正することができない。例え、こちらがあーしろ、こーしろと言ってみたところで

          タトエバ2 暮らし2 -ALSだった母と暮らして-

          タトエバ1 ALSだった母と暮らして

          筋萎縮性側索硬化症(通称ALS)という病気に罹った母との暮らしが終わった。昨年の11月の終わり、母は逝った。家で最後を看取ることになった。ALSは治す術がない病気。体が少しづつ動かせなくなっていく。そしていずれ、呼吸ができなくなる。もしくは、食事が採れなくなる。そうして、終わりがやってくる。人工呼吸器を付けて、胃に管を通して栄養を取るという方法で、生きる可能性が広がる場合はある。けれども、母はそれらの方法を手に取ることは望まなかった。 4年3ヶ月。それが病気の発覚から終わり

          タトエバ1 ALSだった母と暮らして