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タトエバ7 繰り返し -ALSだった母と暮らして-


これは、母が死んだ後の書き記しだ。

ここからは、母と暮らしていたときのことばと、母がいなくなった後のことばを並べていこう。

終わりに向かっていくその暮らしは、どうにもできないものに因われるのではなく、どうにかできることを手繰り寄せていくように日々を過ごしていくことだった。終わりは定まっていても、終わり方は定まってはいない。それは見定めることができるものではない。だからこそ、いまに出来ることを手放さないように暮らしていこうと、母と家族は心持ちを共有していたと思う。

終わりは、それが過ぎ去っていってみてようやく、その姿形がこちらに印される。これが終わりなのだという事実は、取り換えがきかなくこの手に残されていくけれど、これが一体何なのか、どういうことなのかを掴むことは簡単ではない。それができることではないのかもしれない。

時間が物事を概要にしていく。どんなことだって整理して、収まりやすい、都合の良いかたちにまとめあげて、ぼくたちがこれまで通りに、これからを生きていくのに支障がないようにしていく。

それはそうなのかもしれないが、それだけでは済ませたくないという気持ちがずっと続いている。だったらどうするのか、という思いがずっとことばを書かせている。母と暮らしたこと。ALSという病気を抱えながら、母と共にどう暮らしたのかということを書き記そうとしている。母との暮らしに終わりはやってくるしかなかったとしても、終わりがやってきてみて、それを終わりにはしないという思いがはじまるようになった。繋げていく。母との暮らしをどこかのなにかへ繋いでいく。それが自分のこれからにやりたいことになった。

だから、これを書いている。

母が死んで、すこし時間が経って、ひとつずつ振り返って、ちょっとずつ書きはじめた。ALSという病気に対して、母と僕たちがどう向き合ったかを。できるだけ具体的に詳しく、書き残していこうとした。

これはそのはじめ。




繰り返し  23年12月21日


母と暮らすようになってから、寝る前のストレッチを毎晩欠かさなかった。自発的に動かすことができない体が動くことを忘れないように、1日の最後に1日の暮らしの中に表れない体の動きを外側からの力でなぞらせる。ベッドに横たわって、足首を回す。下肢をもって膝を曲げ太ももをお腹のほうへ押付ける。股関節を倒して、開く。大きくぐるっと回転させる。左右をそれぞれ3、4回ずつ。腕を持ち上げ、上に伸ばし、左右に倒す。こちらも大きくぐるっと回転させる。手先をマッサージする。親指の付け根辺りをぎゅっぎゅっと強く指圧する。手のひらを両手で揉むようにする。曲がったままになってしまう指を出来るだけ広げて伸ばす。手首をブラブラと前後に大きく振る動きを促す。体が固まってしまわないようにすること。動かせないのと動かないのは同じではないということ。病気だからと勝手に思い込んで、出来ることがあるのにそれをこちらの方から手放さないようにと、はじめから思っていた。母はいつも、気持ちが良いと、ありがたいと言ってくれた。体が固まることはないようにい続けた。

話すことはゆっくりとできなくなっていった。声を少しづつ出せなくなっていった。ただそれも、なすがままになるだけではなかった。23年の4月、デイサービスへ行くのを終わりにするまで、母は挨拶や感謝の言葉を述べることができるようにと、発声練習を続けた。22年1月にひまわり訪問看護ステーションの看護サービスを受け始めた。その中で、口腔や嚥下の体操、発声の練習を行っていった。嚥下機能を働かせる体操に、「パタカラ」「あいうべー」「ベロはたから」と発声して、口と舌を動かし、話し、飲み込む機能を維持していくためのトレーニングを続けた。看護士さんを見様見真似して、毎晩眠る前に2人で練習することがはじまったのはそこからだ。言語聴覚士さんによるリハビリも週に1回受けるようになった。自分の名前や家族の名前、おはようやおやすみ、ただいま、おかえりと挨拶、ありがとうと感謝を発声する練習が繰り広げられ、それも毎晩の自主練に加わっていった。発しやすく伝えやすい万能に使える「どーも」を練習の最後に何度も繰り返した。毎晩のトレーニングに限らず、ソファに座る母を見ると、練習を繰り返す母をいつも見つけた。言語聴覚士さんとのリハビリを23年2月に終わりにしてからもずっと、嚥下体操は止めなかった。舌を前後に出し入れ、左右の口端に向けて目一杯に突き出す。ぐるっとと大きく回す。ぐいっと上目使いにしてから、眉間にしわを入れるようにしかめっ面する。嚥下機能を働かせる顔面の体操を行い続けた。

23年4月から理学療法士さんによる体のリハビリをはじめた。嚥下のための首の前後、左右、回転運動を教えてもらうとまた、顔面の体操に加えてそれも取り入れた。僕が促して始めたことだけでなく、母が自らやり出したことが大半だった。話すこと、食べることが難しくなっていくことにつれて、はじまり増えていった機能維持のための取り組みを母は最後までやり続けた。諦めなかった。頭をまっすぐ上げ続けることが簡単ではなくなってきて、僕が、母と向き合い、頭を支えながら、舌の運動、顔面の運動をしていた。食べれなくなった最後の週のその前まで、母は頭を支えるフォローを僕がしながら、首を前後左右、回転させるトレーニングを行った。

はじめから最後まで、続けたことがたくさんあった。母と僕は、自ら手放すということを最後まで受け入なかった。できることをできるところまで、この家で暮らすことを最後まで。終わりはやってくるのだけれど、だからといってそれが、自分がどうするかを決めるのではなかった。母は、人工呼吸器を付けることや、胃ろうを設けることを望まずに手に取らなかったけれど、それは「生きない」ということではなかった。母は生きた。最後まで母らしかった。

2人で終わりまで続けたことがあった。毎日繰り返したことがあった。




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