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建保の騒乱 その6


 
  世の中は
  鏡にうつる
  影にあれや
  あるにはあらず
  なきにもあらず

五月二日は、蒸し暑い日だった。和田の館では、朝から慌ただしく皆が働いていた。明早朝の決起に備えて、武器の手入れに余念がなかったのだ。和田氏に与力を約束した、武蔵の横山氏一党も、相模各地の御家人たちも、今ごろは出発を間近に控えて、忙しく準備を進めているはずたった。緊張した面持ちの中にも、一族の受けた屈辱を晴らす時が刻々と近づいている事に、誰もが高揚する気持ちを抑えかねているようだった。

朝盛もそうした者たちに混じって、自らの重籐の弓に、十二人張りの弦を張らせているところだった。朝盛の騎射の腕前は、多くの優れた弓取りのいる和田一族の中でも群を抜いていた。朝盛の迷いはすべてふっ切れたわけではなかった。しかし、こうして合戦の準備に追われる中で、武者としての本能が、そうした迷いを片隅に追いやっていた。

朝盛は、箙に、三十六本の矢を詰めた。自らの生国と名を記した上差矢は、特に敵将を射る時に使用する矢だった。願わくば、この上差矢で義時を射倒す事がかないますよう、朝盛は深く心に祈念した。だが、同時に将軍家に向けてこの上差矢を射る可能性も残されたままだったのだ。

その時、一人の郎党が朝盛の下に来客を告げに来た。客は、将軍家の側近くに仕える五條の局だった。一瞬迷った後、彼は父といっしょに五條の局に会うことにした。

「将軍家よりの至急の御伝言をお伝えに参りました。」

侍廊に二人が坐るやすぐに五條の局は話し出した。切迫した心が身体中にあふれている。

「うかがいましょう。」朝盛が答える。

「はい。今朝早く、三浦義村殿とその弟の胤義殿が、執権殿の館に参じられ、和田、横山の一族が明日三日早朝を期して謀反の事、と告げられたそうです。」

常盛、朝盛の父子は一瞬にして蒼ざめた。

「執権殿は直ちに御所に参じられ、尼御台様と御台所様を鶴岡別当坊に避難させられました。また、北条氏一族をはじめとした、鎌倉在住の御家人たちに命じられ、御所の門を厳しく固めさせておられます。」
「将軍家はいずれにいらっしゃいます。」
「はい。将軍様は御所に残られました。とにかく、すぐにこの事を朝盛様に御伝えするよう将軍様から命じられ、私は、御台所様とごいっしょに鶴岡別当坊に参る途中に別れてここに参った次第です。」

二人は言葉を失っていた。三浦の裏切り。事はあまりに大きすぎた。朝盛は、郎党二人を付けて五條の局を鶴岡の別当坊まで送らせた。そして、すぐに義盛をはじめとした一族の者を集めて、今後の事を協議しようとした。

その時だった。馬のいななきとともに、東門の外側に軍勢の集まる気配があった。

「和田の方々に物申す。そなた等の、将軍家への御謀反の企て、もはや露見いたしました。筑後左衛門尉朝重は、執権北条義時殿の命によりまかり越した者。神妙に将軍家の御前にて裁きを受けるようお伝え申す。」

朝盛は急いで東門の櫓に駆け登った。門の外側には、筑後朝重に率いられた五十ほどの武者たちが集まっていた。朝盛は「おかしい」と思った。こちらの軍勢の数や準備のほどは、詳細に義時の下に三浦を通じて伝わっているはずだった。それなのにこの人数で押し寄せて来たのだ。「あっ。」と、朝盛は短く声を発した。すべては義時と義村が計画した事だったのだ。

和田方の決起の日を知り、その前日に少ない軍勢で義盛が立ち上がるしかない状況を作る。たぶん、この門の外側の軍勢は、和田方の攻撃で簡単に崩れるのだろう。そして、騎虎の勢いで和田方は義時の館を襲う。義時は将軍家の側にいるはずだった。当然、我々は御所を攻撃することになる。結果、将軍家に弓引く者、という大義名分が成り立つ。後は、鎌倉中の御家人、いや、関東中の御家人に、将軍家の名で和田氏誅殺を命じていけばよい。そして、和田氏に与力を約束した横山氏や他の相模各地の御家人たちを、各個に誅していけば良いのだった。

朝盛は時の流れに従おうと思った。たとえ義時、義村の描いた絵の通りであっても、このまま和田一族は合戦へと進むしか道はなかった。武者として名を残すような戦いをするしかなかった。

東門が外側に向かって開いた。立烏帽子に鎧直垂姿の義盛が大音声に叫ぶ。

「いな事をおっしゃる。我々は将軍家に弓引く気は毛頭ござらん。将軍家の名を騙って傍若無人の振る舞いの多い北条義時を除かんと欲しての蜂起。それを止めんとなさるならば、弓矢の家の者として尋常に勝負つかまつるべし。」
「わかり申した。」

筑後朝重は、弓に鏑矢をつがえ、ひょうど放った。鏑矢は和田の館の屋根の上を長鳴りして飛び越えていった。建保の争乱の第一矢は、こうして放たれていった。和田方の軍勢も、櫓の上から一斉に弓を放っていった。筑後朝重も矢を放って応戦したが、すぐに半分ほどの兵が討たれ、一人が逃げ出すと、他も争うように北へ向かって逃げていった。あまりにあっけない始末だった。

筑後朝重の軍勢が去った後、常盛が義盛に告げる。

「父上、三浦義村の裏切りです。義村が明早朝の決起を義時に知らせた由。」
「こうなっては明早朝まで待つ事は出来まい。半刻後に一気に打ち出す。鎌倉内にいる与力の方々にはすぐにこの館までお集まりあるよう使いを出せ。」
「かしこまりました。」
「横山殿には早馬を出し、明早朝由比ヶ浜にてお待ち申しているとお伝えせよ。今は一騎でも人も馬も必要な時ゆえ、相模各地の与力の方々への使いは、横山殿にお頼みするように。」
「わかりました。」

いざという時の胆力はさすがに戦場で鍛えただけのことはあり、義盛は次々とと指示をしていった。

「なに、明早朝の合戦が半日早くなっただけのこと。和田一族の武者魂を義時等に見せようぞ。」

義盛の言葉に、皆の気持ちは一気に鼓舞されていく。それにしても、三浦義村の裏切りは許せなかった。誰もが、義時と義村の首だけは、是非ともあげねばならないと心に誓った。

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