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建保の騒乱 その5


 
  世の中は
  鏡にうつる
  影にあれや
  あるにはあらず
  なきにもあらず

鎌倉を取り巻く山々の青葉に、走り梅雨を迎えて篠つく雨が降りかかっていた。町は妙に静まり返っていたが、人々は雨の中、忙しく家財を山に隠し出していた。合戦が近づいている気配は、誰もが肌で感じていたのだ。皮肉な事に、朝盛の出家が、和田方、北条方の決戦の導火線に火をつけた格好になっていた。

それでも将軍家は、二十七日になって、宮内公氏を義盛の館に使いさせた。とにかく思いとどまるように、将軍家の思いを義盛に伝えさせた。義盛は、将軍家に弓引くつもりは全くないと、返答するばかりだった。だが、義盛の館では、着々と合戦の準備が進んでいる事実を公氏は目で見、そのままを御所に戻って奏上した。

北条義時は、大江広元と相談の上、鎌倉中の御家人たちを御所に召喚した。すぐさま甲冑を着するまではないが、御所の警備の人数を増やす事、合戦に備えて武具等の準備を怠らぬ事、などを命じていった。

夜半になり、実朝は、再び刑部丞忠季を義盛の館に送った。とにかく蜂起を止め、上総に戻って裁許を待つように説得させた。義盛は、義時の傍若無人の振る舞いに対して、一族、郎党たちの怒りは収まらず、もはやその怒りを止めることは自分には出来ないと、述べた。刑部丞忠季は、むなしく御所に戻るしかなかった。

義盛の館には、義盛の子息たちに伴われて兵が集まり始めていた。一族の主立った者たちと、三浦義村父子も参加して、その夜合議が持たれた。

「鎌倉に集めた武者はどのくらいか。」

「はい、この館に百騎。私の前浜の館に五十騎。合わせて百五十騎ほどです。」

義盛の問いに、常盛が答える。

「少ないな。」

「いっぺんに鎌倉入りさせますと、それがきっかけとなって合戦になります。こちらの準備が整わないうちの突発的な合戦の開始は避けなければなりません。」常盛の言うとおりだった。

「義村殿の鎌倉での兵力はどのくらいになりますか。」常盛は、義村の方を向いて尋ねる。

「すぐに動かせるのは百騎ほど。鎌倉中に館を構える大身の御家人でも、それが限度であろう。北条とて同じこと。とにかく鎌倉は狭い。百も武者と馬を入れるとたちまち館の中は身動きが取れぬようになる。」

北条、和田、三浦といった大きな館を鎌倉に構える御家人でも、そう多くの武者と馬を館の中に置くことは不可能だった。

「北条方は、小町、大町、荏柄社前、名越の館を合わせて五百騎。」常盛が指を折る。

「いや、今は多くて二百騎。それに北条方の所領は鎌倉から遠い。いざという時には、三浦から五百騎はすぐさま鎌倉入りさせましょう。」

「それは心強い。」義村の言葉にみなが頷く。常盛が鎌倉の絵図面を示しながら話し始めた。

「横山時兼殿の三千騎が稲村が崎から由比ヶ浜へ。波多野、毛利、土屋、渋谷、岡崎、愛甲、村岡、の方々の千五百騎が、化粧坂から横大路へ。上総からの千五百騎が朝比奈越えで六浦路へ。義村殿の五百騎と三浦郡内の和田の庄からの百騎が名越越えで今大路へ。これらで一時に鎌倉を取り囲み、我々の百五十騎がそれらに呼応して鎌倉の中で立ち上がれば勝利は間違いないものと思われます。」

「蜂起の日は。」義村が常盛に尋ねる。

「蜂起の日は、五月三日早朝。与力の方々には、それに合わせて鎌倉に向かって行動を開始していただき、夜明けとともに我々が義時の小町の館を攻撃するのを合図に一時に攻め込んでいただきます。」

「わかった。」

朝盛は黙って合議のゆくえを聞いていた。確かに、夜明けをねらえば義時が小町の館にいる確率は高かった。が、もしもいなかったならば。さらに、御所に逃げ込んでしまったならばどうするのか。誰もその事を深く考える者もいなかった。死のう、と朝盛は考えていた。今回の合戦は自らの死に場所を求めるだけが彼の望みだった。

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