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午前3時13分

我ながら器用だと思った。
キーボードに手を置いたまま寝落ちしていた。
その手の上にうっつぷすこともなく寝ていたようだ。
ノートPCはスリープ状態。
自分と同じく眠っていたようだ。
机の上のデジタル時計は03:13。
「やれやれ」
キーボードから手をどかし、両手を握り指の関節を鳴らす。
いい加減この癖はなくそうと思うが、ついポキポキと鳴らしてしまう。
首を回し、肩甲骨も「ポキリ」というまで動かしてみる。
そして、改めて、キーボードのエンターキーを叩くと、画面が明るくなった。
パスキーを入れると、書きかけの画面になる。
それを見て二度目の「やれやれ」を口にした。
思った以上進んでいない。
意味不明な言葉も打ち出されていない。
カーテンの隙間から見える隣のビルの部屋の灯りが消えたのを見て「もうそんな時間か」と思ったのは覚えている。
そんな時間とは午前0時30分。
仕事部屋として借りているこのマンションは、繁華街のすぐそばにある。
四階建ての古いマンション。古い建物だが防音設備のしっかりとしたマンションである。
「住人のほとんどが、夜の繁華街で仕事をしているので、マンションの自治会みたいなものはありません」という不動産屋の説明が、ここを借りる最大のポイントとなった。
一階には管理人が住んでいる。
管理人は自分よりも少し年上の双子の兄弟だった。
部屋を借りて2年になるが、兄弟の見分けはいまだにつかない。
同じ4階に住む徒野あだしのという自分より少し若い女性も6年ここを借りているが区別がついていないと話していた。
「でも、まぁ、特に不便はしてないです」
彼女も仕事部屋として、このマンションを借りていると話していた。
「占い師をやっています」
そう言って名刺を寄越した。
自分は作家だと告げた。
「ペンネームで書かれていらっしゃるんですか?」
苗字だけ告げていた自分に徒野さんは言った。
本名で書いていることを告げ、フルネームを伝えると、出たばかりの新刊のタイトルを彼女は口にした。
「シリーズ全部読ませてもらっています」
「ありがとうございます」
そう言うと彼女はおかしそうに笑った。
徒野さんとはエレベーターで一緒になることがあったが、それ以外の住人とは会うことはなかった。
改めてPCの電源を落とす。
立ち上がり背伸びをした。
飲みかけのすっかり冷めたカフェインレスのコーヒーを飲み干す。
「とりあえず歯でも磨こう」
自分の気分転換の手段のひとつだった。
歯磨き粉をつけずに時間をかけて歯を磨く。
洗面所ではなくキッチンに歯ブラシを置いている。
それを手にするとダイニングの椅子に座り歯を磨く。
その間は不思議と何も考えることはない。
ただ単に歯の隅々を磨くために歯ブラシを持つ手に集中する。
ひと通り磨き終えると、洗面所に向かい口の中を濯ぎ、デンタルリンスを口に含む。その間、歯ブラシを丁寧に洗う。
デンタルリンスを口から出すと、軽く水でうがいをする。
歯ブラシをキッチンの定位置に戻す。
キッチンの壁の時計は3時半。
学校の教室にありそうなデザインが気に入って買った時計だった。
頭はすっきりとしている。
再び原稿を書き始めてもいいと思えるほどだった。
選択肢は他にふたつ。
今から自宅に帰る。
寝室で寝る。
「寝よう」
そう口に出して、奥にある寝室に向かう。
カーテン越しに覗く空は微かに朝をはらんでいた。