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和菓子屋 - セピア色の桜 #青ブラ文学部

城址公園の桜が見頃を迎えていた。
自分の部屋からも見えるがベランダに出るとよく見える。
遠くが桜で煙っているかのようだった。
見慣れた景色。
それが一瞬、セピア色の桜に変わる。
それはまるでノイズのように。
「そういった症例は未だないのですが、怪我の後遺症かもしれません」という主治医の言葉を思い出す。
特に問題があるわけではない。
景色から色が消えるのは一瞬だ。
ただ少しだけ、疑問が浮かぶ。
セピア色に見えた景色は、本当に、今ここにある景色だっただろうか?
「わからない」
僕は桜を眺めるのをやめ、母が用意してくれた団子を頬張り、お茶を啜った。
「あんたってホント昔から花より団子よねぇ」母が言う。
「昔?」
「そうよぉ。ふふふ」
母が笑う。
そうか。母にとってそれは楽しい思い出なのか…と少しホッとする。
事故で曖昧になった僕の記憶。自分の名前はわかる。でも、鏡を見た時、それが本当に自分の顔なのか自信がなかった。
母のこともそうだった。
僕が目を覚ました時、母は泣いていた。
どうして泣いているのだろう?だけどこの人はいつも泣いてはいなかったか?
でも本当になぜ泣いているのだろう?
訊ねたつもりはなかった。
ひと月ほども目覚めぬ息子が目を覚ましたのだ。嬉しいくて泣けて当然だと母が言った。
その声は記憶にあった。
「おかあさんだ」
僕がそう言うと母はまた泣いた。
目の前の母の顔はどこかぼんやりとしている。
目の前にいる人なのに、どこか遠くにいるような感じがした。
その遠くは距離ではなく、時間。
なぜか時折、母を含めた周りの景色がセピア色に霞む。
今も、また。
僕は目を閉じて、軽く頭を振った。
父と呼ぶ人は最初からいなかったような気がした。
父を覚えていないと言うより、父などいないという記憶がある、が正しい。
そのことはいまだに母に確認できていないが、母も父のことを何も言わないので「父がいない」は事実なのだと思っている。

「桜桃庵」という和菓子屋があって、僕はそこの団子が好きだ。
その記憶が何故か、他の記憶と違い、はっきりしていた。
場所も店構えも、店の人の顔も、そして菓子の味も。
桜の咲く季節になって、ようやく出掛けることも可能になった。
行く先はもちろん桜桃庵である。
事故に遭ったのは夏だった。
怪我はだいぶ前に治っていたが、寒いとあちこちが痛む。
特に頭痛が酷かった。
出掛けるといってもあまり遠くには行けない。
というのも、事故の心的後遺症でバスとか電車とか多くの人が乗る乗り物には怖くて乗れない。
正直、事故の記憶も曖昧だけど、何故かそれらが異様に怖かった。
誰も事故の詳細は教えてくれない。
気にはなったが、知ればもっと恐ろしくなるような気がして、誰にも訊けなかった。
桜桃庵は家から歩いて10分もかからない。
ただ、ひどく細い路地を行く。
神社の裏手に出るための近道だった。
何故かその近道もはっきりと覚えていた。
母が後ろからついてくる。
母は僕をひとりにしない。
思えば僕はなぜあの時バスに乗っていたのだろう?
大学も徒歩で行ける場所にある。
わからない。
桜桃庵に入ると、店の主人が目を丸くして「おぉ」と声を上げた。
「よく来たなぁ」ショーケースの奥から出てきた主人は僕の前に立つと、目を潤ませた。
「お見舞いのお菓子ありがとうございました」
と僕が言うと、桜桃庵の主人は顔をクシャリとさせて笑った。笑ったはずだけど、目が潤んでいるのがわかった。
「お母さんから聞いたよ。うちの菓子のことはとてもよく覚えていたって」
他の記憶が曖昧なうちから、桜桃庵のことだけはとてもクリアに思い出された。
そもそも意識が戻るきっかけが桜桃庵だった。
幼い頃、祖父母に連れられて桜桃庵に向かった道。
桜が咲いていた。
神社の裏手の細道だった。
その風景が見えた時、そこがどこだか気になった。
自分の両手はそれぞれ祖父母が握っていた。
「駆け出すな。転ぶぞ」
「ちゃんと手を繋いで」
「今日は何が食べたい?」
祖父母の声がした。
あぁ、そうだ。桜桃庵に行くんだ。
今日は苺の入った水まんじゅうと桃の餡の入った水まんじゅうを買ってもらおう。
そう思った瞬間、目が開いた。
少し霞んだ知らない天井がそこにはあった。
僕は祖父母が握ってくれていた両手を見ようとしたが体が全く動かなかった。
周りが少し騒々しかった。
「うるさいなぁ」
そう呟いて僕は目を閉じた…と後から聞いた。
天井が見えたことしか覚えていない。

桜桃庵は居心地がいい。
子どもの頃、祖父母と一緒に訪れた時と同じ安心感があった。
勧められるままに菓子を食い、茶を飲み、話をした。
母もずっと、桜桃庵の主人の妹さんと話をしていた。
ふたりともとても朗らかに笑っている。
家にいる時も緊張をすることなどなかったが、桜桃庵はそれ以上に心が安らんだ。
「ここはよそと時間の流れ方が違うからそう思うんだろうねぇ」
桜桃庵の主人が言った。
「そうなんですか?」
「なんだかね。そうらしいんだよ」
桜桃庵の主人は声をひそめて頷いた。
僕は振り向いて店の外を眺めた。
一瞬、また世界がセピア色に染まった。
だけど不思議といつものように不安に感じることはなかった。
僕は主人の方を向き直した。
「大丈夫だよ」主人が言う。
その言葉になぜか涙が溢れてきた。
そうだ。思い出した。
ひとりで留守番をしている時、母が泣いている時、僕が寂しく不安に思っていると、祖父母が来て、僕を桜桃庵に連れて行くのだ。
だけど、母には祖父母の姿は見えていなかったようだ。
母にも祖父母の姿が見えるようになったのは僕が中学生になる頃だった。
そして、そこで僕は知るのだ。
いつも迎えに来てくれるふたりは僕の祖父母ではなく、母の祖父母だということを。
何度か母も一緒に桜桃庵に来た。
そして「もう、あんたたちだけでも来られるよ。道筋はできた」と言って、ふたりは家に来ることはなくなった。
だけど、ここに来ると店の奥にいる気配を感じた。
今もいる。
桜桃庵の先代と楽しげに話をしている。
不思議な話だ。
僕は現世に戻されたのは、こうして常世に繋がる場所に来るためなのだ。
「それに意味はあるのですか?」
主人に訊ねる。
主人は首を傾げ少し考える。
「意味というか…」
主人は言う。
「美味しい菓子が食いたいだけかもな。向こうに行っちゃ食えないから」
そう言われると、昔、祖父母と一緒に店に来ても、買う菓子は僕の分だけだった。
「確かに、桜桃庵の菓子が食べられなくなるのはイヤですね」
そう言うと、向こうで母が笑った。
「ほらこの子は、本当に花より団子でしょう」
そう言ってコロコロ笑う。
僕はその声を聞きながら、またひとつ、団子を口に運ぶのだった。