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【初夏を聴く】#シロクマ文芸部

初夏を聴くにはまだ早い。
夜に聞こえるかわずの声に、無意識に夏を探す自分に気付く。
それを夏の訪れと云う勿れ。
そう言ったのは先生だったと思い出す。
「ほらご覧。すももの花が真白く咲いているじゃあないか」
先生が指をさす。
先生の指差す向こうにあるという白く咲いてる李の花は、なぜか僕には見えなくて。それでも花を探してみるも、ただつばくろが、円を描いて低く飛ぶ。その軌跡を追うばかり。
先生は言う。季節はまだ春だと言う。
燕去し向こうには春名残も見当たらない。
「じゃあこの声はなんなのです?」
夜の淀みに響く声。
「そもそも何が聞こえているんだ?僕にはちっとも聞こえていない」
先生は言う。
「あぁ、それともこの声かい?これはほら、あそこに止まる駒鳥の囀る声だ」と先生は言う。
「駒鳥の…」
言われ僕は耳を澄ます。
「いや違う」
ポロリとこぼしたその声に驚いたのは僕の方で、慌てて見上げた先生は、目を閉じ何かを聞き入っている。
その紅き羽は焔の如く、さぞやこのよに映えるだろう。
しかしいくら探せどその姿はなくて。
「先生。先生」
僕は何度も先生を呼ぶ。
「この音は何ですか?」
何度も先生に訊ねてみる。
先生はようやくゆっくり瞼を開き、ほぅっと静かに溜息をついた。
「雨だよ」と静かに先生は口を開いた。
「雨音だよ。静かに優しく降りしきる」
「雨の音」
そうか。これは雨音か。
「ここにはもう誰もいない」
先生の声が雨に紛れる。
「誰もいない?」
呟いた僕の声も雨に紛れる。
誰もいないここにいる僕は一体何者だ?
先生に訊ねてみようと思ったが、それは声にはならなくて。
「さぁ。もう行きましょう」
ほとんど雨の音に消える先生の言葉に、僕が頷いたのかも定かではない。
『夜明けに目覚めし春すらも 人の絶えしを知ることはなし』
最後に聞こえた先生の言葉。あれは火星年代記の一説だ。
あぁ、そうか。
あんなに待っていたあの年の夏を誰も知らずに終わったのか。
夏を迎える前に世界は冬に覆われ幕を閉じた。
春を春と呼ぶ者のいない世界にようやく訪れた春は、今日も夏を待っている。

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レイ・ブラッドベリ「火星年代記・2026年8月優しく雨ぞ降りしきる」がベースです。
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