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隣人(004)

バイトから帰ってきて家に入る路地を歩いていたら、Kさんが前を歩いていた。
キャリーケースを引く姿を見つけて思わず「Kさん、お帰りなさい」と声を掛けた。
Kさんはゆっくりとこちらを振り向くとにっこり笑い頭を下げた。
そして「お疲れ様です」と言った。
「お疲れ様はKさんですよ」と僕は言った。
本当にKさんは疲れているようだった。
「少し顔色が悪い感じがします」
僕がそう言うと、Kさんは辺りをキョロキョロ見回して「木陰だからでしょ?」と言った。
それだけだろうか?僕は思った。
「あれ?Kさん。病院帰りとか?」
「え?」
「消毒の匂いが」
そう言うとKさんは苦笑いを浮かべて「鼻がきくね」と言った。
「確かに。ちょっと向こうで怪我をしたものだから」
「え?」
Kさんはキャリーケースから右手を離すと、左腕の上腕部を摩った。
「爆発事故があってね。こっちではニュースになってないかもしれないけど」
「え?」
「死者が出なかったからね」
数年前の内戦で無人になった町の施設の調査の最中に原因不明の爆発が起きたとKさんは言った。
「そんな仕事をしてるんですか?」
確か資源開発だと聞いていた。
「採掘現場に近いから、使える施設があったら拠点にしたかったんだけどね」
Kさんは言う。
「直接、攻撃を受けた街じゃなかったからね」
Kさんは飛んできた破片で腕を切ったという。
「うわぁ」
「すごい痛そうな顔をしてる」
Kさんは笑った。
「それ。いつの話です?」
僕がニュースに気づいていないだけかもしれない。テレビはほとんど見ないし、ネットニュースも自分の関心があることだけを拾い読みしている。
「それは内戦?」
Kさんが訊ねる。
僕はKさんが怪我をしたのがいつかを訊ねたつもりだったのになぜか「えぇ」と頷いた。
「一番酷かったのは一昨年ぐらいじゃなかったかな?今は政府が反政府勢力をかなり抑えていて。資源開発に目が向く程度には落ち着いているけど、一度手放した町にはなかなか人は戻ってきてはいないようでね」Kさんは言った。
国名を聞いても、「そういう話もあったかもしれない」程度にしか思えない。
僕は思わず黙ってしまった。
「そういえば」
不意にKさんが言った。
「ライブ、あるんだよね」
「え?はい」
ライブハウスでの定期ライブだった。
随分前に話していたが、毎回Kさんの出張と重なっていた。
「怪我のおかげでしばらく内勤なんだ。今回は行けそうだけどチケットってまだある?」
背の高いKさんが僕を覗き込むようにして訊ねる。
「あります。でも、明後日ですよ」
「木曜日だよね?」
「えぇ」
Kさんは何か考えているようだった。
「3枚とか譲ってもらえるかな?」
「全然大丈夫です」
Kさんは「やった」と嬉しそうに笑った。
「友人たちと行かせてもらうよ」
「友人?」
この町にKさんの友達がいるのだろうか?なんとなくプライベートのKさんを知っているには自分だけのような気がしていた。
「仕事関係なんだけど、たまたま明後日この町にいるんだ」
「この町にいる?」
Kさんはこくりと頷いた。
「キミたちの曲聴かせたカッコいいって気に入ってくれてね。生演奏、ライブで聴いたらもっとカッコいいだろうなぁって、話していたんだ」
Kさんの家に誰かが訪ねてきた気配はない。完全防音の物件だから家の中にいておもてを歩く人の気配など伝わるはずもない。
「今回の出張の帰りにたまたま一緒になってね。機内で聞いていたら、僕が音楽を聴いているのを珍しいって言ってきてね」
Kさんは少し恥ずかしそうに言った。
「失礼だよね」
「そうですね」
出張に行くのに僕たちの曲を持って行ってくれたことに驚いた。
空港で別れると思ったら同じバスに乗り込んだので確認したら、1週間ばかりKさんの会社にいるのだという。
駅前のホテルに宿泊しているという。
僕は改めてKさんが勤務している会社の名前を訊ねた。
世界的にも有名な会社で、確かその会社のバイオ何ちゃらの研究をしている施設が自然公園近くに出来るのでちょっとした騒ぎになった。
でも結局、自然破壊には繋がらず、むしろ、企業からの補助金で自然公園の設備が進むとかで、あれだけ騒いだのが嘘のようというのが実状だった。
友人という人たちは同僚ではなく協力会社の人間ということで「同僚というより同業者って感じかな?」とKさんは言った。
「そうなんですか」
少しだけ、落胆している自分に気がついた。
自分以外にこの町にKさんを知る人がいないと勝手に思っていた。
「ここだと会社、遠くないですか?」
「え?」
いきなり話が変わってKさんは驚いたようだった。
「そうだね。毎日通うなら不便かもしれないけど、滅多に通うことないからね。僕は外を飛び回ってなんぼの仕事だから、仕事じゃない時はのんびりと過ごしたいから、ここの家はとても気に入っているんだ。まぁ、そんなにいないけど」
Kさんは言った。
「会社の近くには寮もあるけど、仕事が終わった後も職場の人の気配感じたくないし…あ、それとも、反対派だった?あそこにウチが来るの」
Kさんはそう言って眉を下げた。
「いえいえ、全然」
僕は慌てた。
「むしろ、この町の人口が増えるとお店のお客も増えるじゃないですか」
「そう?あぁ、僕はまだお店に買いにも行けてないね」
「いえいえ。Kさんには、こうして僕の焼いたパンをお裾分けして…」
そこまで言って、僕は気がついた。
僕はKさんを僕の秘密にしておきたい。そう思っているのだと。
だからライブを聴きにきてくれるのは嬉しいけど、おそらく僕はメンバーにはKさんを紹介しないだろう…少なくとも、今、自分の思いに気がつくまでは、誰にもKさんのことを教えはしなかったろう。
そんな自分に気がついたら、急に恥ずかしくなった。
「どうかした?」
Kさんが僕を覗き込む。
「えっと。チケット、家にあるのでお届けします」
いつもより早口になるのを止められない。
「あ。うん」
「3枚ですね?」
「お願いできる?」
「はい。知り合いに配ろうと思っていたのがあったんで」
「あ。チケット代…」
「大丈夫です。その代わり、お店でワンドリンク頼んでもらわなくちゃならないんですが」
「それは全然大丈夫」
「あぁ。怪我してらっしゃいますよね。ドリンク、ノンアルでも大丈夫です」
「あ、ありがとう」
Kさんは僕がいつもと違うと思ったのか、そう言うと「じゃあ、後で」とキャリーケースを引きずって家に向かった。
僕もさっさと家に入ろうと思ったが、つい、Kさんの様子を見てしまった。
Kさんは怪我をしている左腕が痛いのか、キャリーケースを持っていた右手を話すと、ポケットからカードキーをだしドアノブに当てた。
鍵が開いたようで、カードをポケットにしまい、右手でドアを開けた後、右手でキャリーケースを家の中に入れてから家の中に入った。
最後にKさんがこちらを向きそうになったので、僕は慌てて家の中に入った。
玄関の中で大きく息を吐いた。
チケットを持って行くまで、僕は平常心になれるか自信がなかった。


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