見出し画像

事件の夜と雨の午後

雨宿りで入ったドーナツ屋。
おかわり無料のカフェオレとチョコレートのかかったドーナツをひとつ買って窓際の席に着く。
いつもは車で移動するが、その車を車検に出してきた帰りだった。
年度末の有休消化。
代車を出すと言われたが、運転し慣れない車で緊張するよりも3日ばかりは歩いたところで問題はないだろう。そう判断したのは、間違いだったかもしれない。車移動に慣れると傘を持って歩くことがなくなる。学生時代は鞄の奥に折りたたみ傘が必ず入っていたものだ。
「そういえば、あの傘はどうしただろう?」
捨てた記憶はない。
少し離れたテーブルで4人のご婦人方が話をしている。
向こう側の小さなテーブル席にはそれぞれ勉強をしている若者がいる。
看護学校の生徒だろう。
以前、他のファーストフード店でも幾人かあんなふうにテキストを広げていた。そのテキストに視線を向けると、それぞれ免疫とか公衆衛生とか、一見さまざまなものに見えたが、そこにいた学生全て(4人ほどいた)看護学生だった。
広げているテキストの厚みから見ても、多分そうだろう。と勝手に納得してカフェオレを啜った。
家で淹れるカフェオレはどうしても薄いような気がしている。コーヒーをもっと濃く抽出すればいいのだろう。そのためには粉を多くするしかないのだろうか?少し前までは、この店のカフェオレは煮詰められた味がしていたけど、最近はコーヒー感がよく出ているような気がする。少なくとも家で飲む薄めのカフェオレよりはマシだ。
「え?ウソ」
幾人かの声がハモった。
ご婦人方のテーブルにふと目がいった。
「ウソじゃないわよ。さっきここにくる途中見えたもの」
「気がつかなかった」
「私も」
「ほら、テレビドラマやニュースで見るでしょ?立ち入り禁止のテープ。あれが貼ってあったわよ」
あぁ。
ラブホテルでの殺人事件。
まだニュースで報じてられてないのだろうか?
住宅街の中にあるラブホテル。
正しくはラブホテルの周りに家が建ったのらしいけれども、それなりに需要があるようで、自分が子どもの時にその存在に気付いた。白いコの字型の建物は一階が車庫になって二階が部屋。一階の車庫には目隠しのカーテンがかかっている。僕が子どもの頃はその目隠しはなかった。
車庫付きのアパートだと思っていたがその建物を囲む背の高い塀と看板に気付いてようやくそこがアパートではないということを知るまでしばらくかかった。
ずっと名前の変わらないラブホテル。
事件が起きるのは僕が覚えているだけで三回目だった。
「殺人?」
「そうなんじゃない?」
僕の家からはそのホテルまで少し距離があった。
ホテルの近くに親戚が住んでいたことがあって、それでホテルの存在を知った。
高校生の頃はそのホテルの前を自転車で毎朝通っていた。
学校に行くのに近道だった。
ホテルの前を通る際、一階の車庫に車が停まっているのを見ては「まだいるんだ」と妙な感心をしていた。
目隠しのカーテンは高校を卒業する頃に登場した。
カーテンは車のナンバープレートを隠すけれど、タイヤは見えた。
最初の事件はそのカーテンが登場する少し前だったと思う。
心中未遂だった。
男が女を殺して、自分は死に損なった。そんな感じだった。
殺された女が自分と同い年で驚いた。
男も女も町の人間ではなかった。
「なんかさ。ここって定期的に殺人起きるよね」
「全国ニュースになるような事件起きる」
確か殺されたのが未成年だったから、その心中未遂も全国ニュースになったはずだ。
それからそう間をおかず、同じホテルで事件が起きた。
それは大きく報道されていない。というのも、ほとんど同時に有名人が殺される事件があってマスコミはそちらを報じるのに忙しかった。
ホテルで起きたのは男が女に刺されたという事件だった。
別れ話がきっかけというが、ラブホで別れ話ねぇ…と大学生だった自分は友人らと話した。
その時の友人の中にホテルオーナーの甥がいて、ニュースで報じられていない話をいろいろ聞くことができた。
そして、その友人が現在のホテルオーナーだった。
昨夜遅くに起きた事件。
僕はその友人に会うためにホテル敷地内のオフィスを訪ねていた。
建物はほとんど変わっていないように見えるが、設備は進化していて、会計は顔を合わせることなくできるようになっていた。
客が部屋を出ると清掃スタッフが入る。
客の退出はスタッフルームだけでなくオーナーにもわかるようになっているし、精算が現金か否かもオーナーの持つ携帯端末に情報が入ってくる。
オーナーである彼は決まった時間に現金を回収する。
「この頃は現金払いが減ってね」友人は苦笑する。
「こういうホテルはもう新しく建てられないからね。閉めちゃうわけにはいかないんだ」
「町の人口が減っても需要は変わらない?」
「びっくりするほど人口が減っているわけでもないし、案外とビジネスホテル代わりに使う客も多くてね」
学生時代には見せなかった表情で友人は言う。
もっとも友人の収入はラブホテルばかりではない。
「オーナー、すみません」
ノックもせずにスタッフがオフィスに飛び込んできた。若い男のスタッフだった。
友人はそれを咎めもせず「どうした?」とだけスタッフに訊ねた。
「死んでます」
スタッフは青ざめた顔でそれだけを告げると、へなへなとその場に座り込んだ。
友人は自分の端末を見ると「C?」と言った。おそらく部屋番号だろう。
スタッフはこくりと頷いた。
「悪い。この子、見ててもらえる?行ってくるわ」
友人はなんてことない慣れた風でオフィスを出て行った。
僕はへたり込んでいるスタッフを何とかソファに座らせた。
「テープが目立ってたから気がついた」
と話すご婦人はどうやら昔の心中未遂事件も覚えていたようだ。
他のご婦人方は覚えていないか、その頃はこの町にいなかったのか、熱心に昔の事件の内容を聞いていた。
「警察来るけど大丈夫?」
戻ってきた友人は言った。
「大丈夫?って何だよ?」
ベテランスタッフが、各部屋に内線電話で事件の旨を告げているという。
「警察来るから、服着て待つように。って。そこまで残ってくれたら今夜の料金はタダだよって」
「大したサービスだね」
「まぁね。それでも帰っちゃう人もいるけどね」
昨夜、僕がいた時点では七部屋あるホテルは満室だった。
プライバシーの保護のため解像度は上げてはいないが、部屋の入り口にカメラが設置されている。誰が入って出て行ったかはわかるようになっている。
「その誰かが誰か?は警察が調べることだ」
友人は言った。
僕は簡単な事情聴取を受けたあと、依然震えているスタッフを送るべくホテルを後にした。
「また殺人なんて嫌よね」
「ホント」
「ねぇ、そういえば…」
ご婦人方の話題は、最近マスコミが取り上げている有名人の不倫話に移っていった。
看護学生らはテキストを黙々と解いている。
雨はまだ降っている。
通り雨だと思っているが違ったらどうしようか?と少し憂鬱な気分になる。
窓の外に見えているコンビニにはビニル傘は売っているだろうか?
「おかわりは如何ですか?」
「あ、お願いします」
温かいカフェオレがカップに注がれる。
手付かずだったドーナツに齧り付く。
端末が震える。
ホテルオーナーの友人だった。
「昨夜の話。途中で終わったからどうする?」とあった。
「今日はホテルのは休みだし」
なるほど。そうだろう。
「車を車検に出した途端、雨に降られて、ドーナツ屋にいる」
「迎えに行くよ」
「ありがたい」
昨夜の話はここでするような話ではない。
おそらく友人の家か僕の家に向かうことになるだろう。
事件の話も聞けるだろうか?
もうすっかり別の話題に夢中になっているご婦人方をチラリと見て、カフェオレを口に運んだ。