見出し画像

【春の夢】#シロクマ文芸部

「春の夢、終日のたりのたりかな」
「それを言うなら春の海だ」
助手席の蒼月がチラリと青藍を見た
「知ってますよ。与謝蕪村」
「ほう」蒼月は意外だと言うように声を上げるが、その顔は笑っている。
「じゃあ、なんで春の夢なんだ?」
「随分な夢を見たんだ」
「随分な夢?」
ひどい夢でも、こわい夢でもなく、随分な夢という言い方が青藍らしいと思ったが、どんな夢なのか蒼月は気になった。
「多分あれはイギリスの庭なんだ」と青藍は語り出した。

広い庭を青藍は見ていた。
芝生の向こうの森の木々が風に揺らいでいるのをじっと見ている。
木々が揺れるほどの風だが、何故かその揺らぐ木々たちがゆったりと踊っているかのようで、青藍は見入った。
「ずーっとずーっと見ているんだ」
隣に蒼月が座る。
そこで青藍は自分が10歳かそこらの子どもであることに気づく。
あの頃の青藍は体が弱く(今も決して丈夫とは言えない。と蒼月が口を挟む)、蒼月が青藍にブランケットを掛ける。
「ほら、こんなに冷えて。いつまで起きているつもりだ?」と蒼月が言う。
気がつくと青かった空は星がきらめく夜空に変わっている。
木々はまだ揺れている。

「僕は、木々が揺れるのをやめるまで。と言うんだ。すると兄さんが何か言う」
「何か?」
「そう。何かを言うから僕はそれを聞こうと兄さんの方を向いたんだ」
「うん」
「そうしたら目が覚めた」
青藍はそう言って、少し口を尖らせた。
「なんだい?目が覚めたのが不満なのかい?」
蒼月が笑う。
「だって、楽しそうに揺れていたんだ。それを見ているのはとても気持ちが良かったんだ」
「ふうん。それはあんな感じだったのかい?」
蒼月が赤信号の向こうで揺れる木々を指差す。
青藍はそれを見る。
「あぁ、うん。あんな感じ」
ゆったりと揺れる木々。風ではあんな風には揺れない。
「え?」
青藍は思わず隣に座る蒼月の顔を見る。
「ほらほら、きちんと前を向かないと危ないよ」
蒼月が前を指差す。
「え?」
青藍は揺れる木々と蒼月を交互に見る。
「どうなっているの?」
青藍を見る蒼月が声を出さず、だけどとても可笑しそうに笑った。

「そこで目が覚めたんだ」
ミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲みながら青藍が言う。
「何?俺が悪いの?」
ミルクの入らないコーヒーを飲みながら蒼月が言う。
「うん」
青藍は当然と言わんがばかり頷いた。
「ドキドキして目が覚めたんだ」
「そりゃあ、悪いことした。でもな、青藍」
蒼月はカップを置いた。
「俺が助手席にいる時点で、これはおかしい。夢かもしれないと気付いてくれよ」
「気付かないよ。だって夢だもん」
子どものように頬を膨らす青藍を蒼月は嬉しそうに見た。
「じゃあ、これから俺の運転で春の海を見にでも行きますか?」
蒼月の提案に、青藍は大きく頷いた。