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炎上していた動画を見て、AIに取って代わられる部分で原作ものの脚本家と記者は一緒かもしれないと思う

スレッズの投稿に少し加筆したものです。



一部の発言が炎上し話題になり、その後削除された「シナリオ作家協会」の動画を見た。

「原作者に会いたくない。私が大切なのは原作で原作者はあまり関係ない」という脚本家の一人の発言には他の脚本家も困惑した感じで、それは炎上するだろうと思ったが、動画全体としては、「セクシー田中さん」を巡る問題についてプロデューサーの調整不足を指摘したり、脚本家の作家性やクリエイティブな作業についての話もあり、あそこまで炎上するようなものではなかったと個人的に思った。

その動画の中で、脚本家の伴一彦さんが取り上げていた原作ものを手がける脚本家の作家性の話は、どこか記者と似ている部分もあるなと思った。

伴さんは脚本家としては原作ものであっても原作そのままではなく、作家性を発揮したい。そうしないと漫画をただ文字に起こして脚本にする作業になってしまうという趣旨の話をしていた。

現在上映中で原作漫画から変わった点もありつつも非常に評判がいい「カラオケ行こ!」であったり、優れた映像化は紙から映像に落とし込む際に脚本家による“改変”が行われているものだ。

「セクシー田中さん」の場合は、原作者の芦原妃名子さんが原作そのままであることを条件にドラマ化を認め、結果改変されたと訴え、結果的に悲劇に繋がった。

こうした事情も背景にはあると思うが、脚本家の作家性、つまり原作からの“改変”へのアレルギーが想像以上に大きいことが今回浮き彫りになったと思う。原作ファンは脚本家の作家性は求めていないし、原作改変はここにきて嫌悪の対象とまでなっている印象だ。今回の芦原先生の件でその傾向はさらに強まるかもしれない。

もちろん原作ものの改変でも良い改変は今後も一部の好事家、マニアには好まれ賞賛されるだろうが、大多数の人にとっては余計なものとなってきているのかもしれない。実際、「原作に忠実」「原作者が関わった」と原作から“改変”しない、原作者の意向に沿ったものが売りとなる時代になっている。

この現象は、記者の世界にも類似しているなと感じた。

事実を単に伝えるだけではなく、個人の視点や分析を加えることがジャーナリズムの本質だと考える人もいる。しかし、読者や視聴者の中には、このような個人的な解釈や分析を不要とする声も増えている。

原作ありのものの脚本を作る脚本家も、記者も、そのままを書くだけでは単純作業じゃないかと屈辱的に捉えるかもしれない。けれどそのおこだわりが余計なものになっているのかもしれない。

あるものを何も考えず、そのまま別のテキストに置き換える。AIなら意図も簡単に、何も考えずに素早く行える作業だ。今は精度がそこまでかもしれないが、将来的には人間の作業と区別がつかないレベルに達するだろう。一般の人の意識が変わらなければ、原作ものの脚本や記事はAIに早晩とってかわられるのかもしれない。

ある分野の仕事で中の人たちがよかれと思って、正しいと思ってやっていたことが外の人には通じなくなった。そんなケースは脚本や記事でなくてもごまんとある。

自分が働く分野のウェブメディアの記事でも丁寧に取材した記事よりも、こたつ記事の方が読まれる。だからどんなに批判されてもこたつ記事は消えず、逆に読み応えのある記事は減る方向にある。

神は細部に宿ると一生懸命考え、仕事をしても同業者など少数にしか理解されない。そんな虚しさは脚本家も記者も共通かもしれない。

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