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2024/01/27 人間と環境の関係

人はなぜ2次避難できないのか?

能登半島地震で2次避難の話がマスコミで報じられていますが、蚊帳の外にいる私たちから見たら、なぜ不便な被災地に留まっているのだろうか、お年寄りが子どもたちはさっさと2次避難すれば良いのにとさえ思ってしまいます。
合理的に考えれば、わかる事なのに、人はなぜ2次避難ができないのでしょうか?しかし、一方で自分自身に置き換えて考えた時に、果たしてそう簡単に2次避難をすることが出来るのかという思いもまた感じました。


都会のねずみと田舎のねずみ

地縁もしがらみもなく、利便性だけで生活している都市部の人たちの方が、案外簡単に2次避難をすることが出来るのではないかと思います。
実は、今住んでいる場所に、そこはもはや同じ日本人であっても、ライフスタイルが大きく違っているために、既に別の人種と言っても過言ではないくらい違いがあるのではないかと思います。

人間にとっての環境とは?

その違いはどこにあるのか、人間にとっての環境とはという問いになると思っていて、自分自身が何に依存して生きているのかということの違いとも言えると思います。

都会の人工的な環境

特に、都心部での生活は、個人という単位とマネー経済で成立しており、ある意味お金さえ持っていればいかようにも暮らせるような仕組みが構築されています。その分、人間個人が環境に対しての影響力もほとんどないような状況になっていると感じます。

田舎の自然環境

一方で、田舎での生活は、自然環境を含めて一体的に生活が成立しているので、人間が個人として成立しているというよりもむしろ、環境の一部として人が存在しているという境地になるのではないかと思います。自分が生きているというよりも、環境の中で生かされているという感覚が近いと思います。

2次避難できない理由

2次避難できない理由は、自然と共に暮らしていると、自分が環境の一部であり、環境に生かされてるとわかっているから、そこから離れて暮らすことが感覚的にできないのだ。さらに、避難して戻ってきた時に、そこが自分の知っている場所ではなかったら、そう考えたら怖くて動けない。そこが復興するのと共に歩んでこそ初めて、その環境と共に生きられるのだ。
そのあたりを理解して、地方の未来を考える必要があるのではないだろうか。つまり、日本の多様な国土は、土着化することによって培われたものであり、インスタントなものを持ってきて復興できるものでは決してないということだ。それを直感的に理解しているからこそお年寄りは2次避難したくないのだ。決してエゴでそれを言っているわけじゃないのではないかと思う。

失われた日本人の暮らし方

かつての日本人は皆そのような暮らしをしていたので、歴史、文化、宗教観がそういう思想をベースにしていると思います。
しかし、都市部での生活では、欧米、特に戦後日本ではアメリカをお手本として社会制度を良くも悪くも作り上げ、その結果の日本の発展があると信じられているので、日本的なというものがずっと否定されてきたというのがこれまでの日本の形だったのではないかと思います。

震災を経験する事で記憶が呼び覚まされている?

それが、阪神淡路大震災の時にはそこまでわからなかったですが、東日本大震災、能登半島地震を通じて、日本に生きるということがどういうことなのかを改めて実感させられ、そしてこれから私たちはどう生きるのかをもう一度考え直さなければならないタイミングにいるのだと思います。

その時に、あたらめて思うのは、日本という国は、恵まれた国土の中で、この環境の中で私たちは生かされているという感覚を取り戻すことなのかもしれない。

ちょうど本日そのようなトークイベントを聴いたことも影響しているが、自分が思ってきたことの輪郭がはっきりできた気がします。

環境に生かされているという感覚を大切にする

つまり、それは、自分たちが箱を作って、環境と対峙するのではなく、環境に生かされる形として、箱を作らなければならないということで、それは切り取られたものではなく、流れの中に存在するものでなければならないということ。

でもそれには正解はない

故に、変数が多すぎて、最適解を一意に導き出すことができないから、だからいつでもやり直せるような形でなければならない。後から手を加えたり、直したりするようなシステムの中にいなければならないということ。

見失ってしまっていたもの

それが本来の日本人の生き方なのに、私たちは箱を作り、閉じこもり、クローズなシステムと消費しか生まない環境を都市部に作ってしまっており、それは今も止まらない経済活動となっている。

サスティナブルであること

そう経済活動なのだ、経済を回さなければならない、お金をえなければならないという浅ましい思想観念に囚われていた。しかしそれは決してサスティナブルでなかった。だから続かないし、増えていかないのだ。

人口減少社会だからこそ出来ること

ここから人口が減るのであれば、それを補いながら循環させながら増やしていく仕組みが必要であるのは自明の理であるが、それをまたすべて人口的に作ることは容易くない。だからこそ、地球という環境、いや宇宙という環境を感じながら、アンテナを張りながら、そこに自分を合わせて、恵みをいただくという観念を取り戻す必要がある。

それは農にある

それが農にあるということにあらためて気がつかされた。
自分がやりたかった事でも向き合えなかった事はそれは農である。実家が農家でそれが嫌だったし、継ぎたいとも思わなかった。早く都会に出て就職して、こんな大変な仕事ではない安定したサラリーマンになりたかった。しかしその夢が叶った今考えてみて、実は大事だったのは農にあると気が付く。いや気がついていたのかもしれないが、それに向き合おうとしなかった。だけどやっぱりそこが大事だと気がついたし、これからの人生の中で取り組むべきこともここにあるのではないかと思う。
そこにはソリューションはなく、実践しかない。しかし、かつてのように再現性がないわけではなく、社会が発展し、それに追いつけるようにもなってきている。そしてこれからの次の世代に伝えていくべき事は、そこにあると確信した。

このつづきはまた書きます。
つづく

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