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2023/04/18 藤野の歴史と文化その①


■藤野の歴史と文化
仕事の関係から、まちの歴史と文化を調べるのが最近面白いようになってきました。単に歳を取っただけなのかもしれないですが、そのまちの歴史と文化をしっかり踏まえてその街を見ることが、これまでの積み重ねの延長に、街の未来が見れるような気がしています。ということで、藤野歴史と文化を調べてみたので見てみましょう。

■藤野ふるさと芸術村構想について
今の藤野の芸術村の構想はかつての県の事業がある事を知りました。今ではありえない壮大な構想を当時は出来たのは、かなり奇跡的な事だったのかもしれないし、そう言う事にお金を使えるくらい日本経済が元気だったからだと思います。
今の時代は、ありとあらゆるものが、縮退に向けて縮こまっているように思えます。
当時の状況としては、京浜エリアの工場群がフル活動していて、そこが、お金を稼ぐまさにエンジンだった、そのためのインフラも一気に整備され、中山間地域は、水瓶としての役割を背負わされ、文字通りダムに沈んだエリアでもあるので、そのために、このエリアの活性化するのは当時としては政治的にも重要な要素だったのだと思います。そうやって東京の発展のために、地域の貢献によっていることがあらためて実感しました。

この結果として、今の藤野や学園が存在出来たので、これはこれで成功例と言えるのか?どうかはまだよくわらないですが、その結果今自分がここでお世話になることになった遠因となっていると思うと感慨深い。
人の因果がどうなるのかは本当にわからないもので、こうして藤野に暮らすことになるとは夢にも思っていなかった。

■周辺の山々
藤野は相模湖を中心に山々に囲まれている。
さつきハウスの目の前には、名倉エリアの山々が見える。東から300m級の京塚山、坊主山、一本松山が連なっている。
裏側と言うか北側には甲州街道、JR中央本線、中央道の幹線が通っており、岩戸山、小渕山並ぶ。こちらも300m級の山である。
今こうして原稿を書いている部屋からも美しい山並みが見え、日当たりが良いところがここでの生活で一番良かったところである。

■八百万の神
日本はよく八百万の神と言われるが、この山々に囲まれた美しい環境で過ごしていると、人智の範囲を越える力としての神の力を感じざるをえないと思います。太陽が登れば暖かく、沈むと寒くなる自然の営みとともに暮らしてきた場所なのだと思います。一方で、そこから切り離して生活してきてしまった都市生活に慣れているので、これからの夏や冬の厳しさが予想されるので、末恐ろしさも感じる。
科学が進んでいない時代であれば、八百万の神の存在を感じるの当たり前だったろうと思う。

■藤野神社
藤野神社は藤野の駅北側の山頂に鎮座している神社で、最後急な階段を登り切ったところにある神社で、山頂からは藤野町が一望出来る。
ここから、鷹取山まで行く登山道の出発地になっている。
藤野を一望する裏山全体が、藤野の山の神なんだということを改めて感じる場所であった。

■相模湖の歴史
相模湖は日本初の多目的ダムとして作られた人造湖。相模ダムの建設が始まったのは太平洋戦争の半年前の、1941年6月。当時の日本は日中戦争によって軍需産業への依存度が日増しに高くなっていた。同時に国際社会の中では孤立を深め、石油を求めて南部仏印(フランス領インドシナ)などへの進出を決めた時期でもあった。そうした背景の中で、京浜工業地帯の軍需産業に電気を送るために、ダムは不可欠とされた。ダム事業を始めるにあたっては、強制的に立退がされた。当時も抵抗運動があったが、周囲から非国民と呼ばれ、軍から圧力をかけられ泣く泣く土地を手放したという背景がある。
後にふるさと芸術村構想の際に、京浜工業地帯の企業に資金援助を求めたのはこのような背景があるからだと思われる。


■パーマカルチャー
藤野にはパーマカルチャーセンタージャパンの事務所があり、日本のパーマカルチャーの発信地となっているのも面白い。社会や時代のニーズとして持続可能性がもとめられるようになっている現在において、パーマカルチャーが目指す、パーマネント(永続性)、アグリカルチャー(農業)、カルチャー(文化)を組み合わせ、持続可能な農業をもとに、持続可能な文化、人と自然が共に豊かになるような関係を構築していくデザイン手法というのが興味深い。
この辺りは詳しくは今後勉強してみたいと思う。


■おわりに

改めて藤野の歴史と文化を振り返ってみましたが、如何だったでしょうか?
都市部とは切り離された場所のように見える藤野のエリアも神奈川県の発展の歴史の光と影を持つことがわかりました。そう考えると、かつての日本の成長期は本当に大きなスケールで事業を行う構想があり、その分現場では大変な苦労があった反面で、経済成長のインフラを作ってきたことがわかりました。今後日本がさらに成長をするためには、もう一度そのあたりの功罪を踏まえた上で、どうしたらよいかを考える必要があるのではと思いました。


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