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女神の行き先

アテネのピレウス港の沖合い20キロほど、フェリーで1時間半のところに、ピスタチオで有名なエギナ島という島があって、その島の東のはずれの山の上に、アフェア神殿という、パルテノンよりやや古く、パルテノンよりだいぶ小ぶりだが、パルテノンよりは保存状態がかなり良い、美しい古代の神殿が建っている。

港から乗客を満載した路線バスに乗って山の上を目指し30分ほど揺られると、オリーブと赤松の森に囲まれた神殿の前にたどりつく。しかしバスを降りたのは数人だった。ほとんどの乗客は、ここからさらに山を下ったところにあるビーチに向かうバカンス客のようで、バスが行ってしまうと、樹々を抜ける風音の静寂につつまれた。

木立にかこまれた小さな券売所を抜け高台の神域にあがると、神殿が、ひとり海に顔をむけて建っている。アフェア神殿。紀元前5世紀建造、アルカイック期の古神殿。見上げると首が痛くなるようなパルテノンとは違って、ごく小規模の、ささやかな神殿である。そしてパルテノンの、いかにも目に眩しい、つるつるの白亜のマーブルとは違い、この神殿は地場の石灰岩でできており、クリーム色がかった、触覚的で柔らかい質感をまとっている。

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2層の建築であったという。内部に2箇所、階段の遺構がある。屋根を失ったいま、階段が、いわくありげに空に向かっている。柱が、足元から天辺まで、継ぎ目のない一本材で立ち上がっていて、したがって力強く、それだけでもう十分に建築の本随を示しきっており、石灰岩の風化の様も、かえってアルカイックの建築がもつ原初の風格を際立たせている。

「アフェア」とは、ギリシア神ゼウスの娘アルテミスとされる。しかしまた先史のミケーネ時代から信仰されていたこの島の女神でもあり、「目に見えない、姿を消す」という意味があるという。望まない結婚により、ここからはるか南東の沖のクレタ島から連れてこられた女性だったとも。

神話によれば、この女神は、この島で「姿を消した」ということになっている。そんな女神に捧げられた神殿である。紀元前3世紀の終わりには、すでに使われなくなったという。建築の方も、やがて主人がいなくなることは覚悟していたはずである。

エーゲ海の小さな島の山の上、太陽の下、二千数百年。ときおり木陰の下に退避しつつ2時間ほど、近寄ったり、遠巻きに眺めたり、海を見ながら向き合って、この主人なき建築が生きた時間のことを考えた。

手持ちの水分がなくなったので神域を下り、券売所の道路向かいにある小さな土産物屋に立ち寄った。水を飲み、名物のピスタチオアイスクリームを食べる。あたりに繁茂するオリーブと赤松。乾いた風と太陽の日射し。夏のギリシア、エーゲ海。冷たく絶品で、何か一気に本能がぶりかえして、山の下にビーチがあることを思い出した。

見当をつけて少し歩くと、山の斜面、森の中を、いま切り開かれたばかりのような急な山道が、一直線に南東の海を目指し下っていた。

行き先はそれ以外に考えられなかった。

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