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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(7)

第1話あらすじ

「血管炎……?」
「正確には、『顕微鏡的多発血管炎けんびきょうてきたはつけっかんえん』と言います」

雪洋から告げられた病名はまったく聞いたことのないものだった。「何ですかそれ」と尋ねると、雪洋はわずかな間を置いて答えた。

「特定疾患です」

え? と声が出た後は沈黙が流れた。
我が耳を疑う。
雪洋は美咲の思考が追いつくまで見守っている。

「特定疾患……って、あの、お国が定めた、あの特定疾患ですか?」
「はい。その特定疾患です」
ということは、それは、つまり……

「難病ってこと……?」

顔の筋肉が引きつって、恐らく笑っているような表情になっているだろう。予想以上の事態に現実味が無い――というよりどこか他人事のようにしか受け取れなかった。

「この病気について、少し説明しましょう」

雪洋が言うにはこうだ。
美咲の病気は血管壁に炎症が生じるもので、「結節性動脈周囲炎」と括られる。
その中で血管径の大きさが中型のものを「結節性多発動脈炎」、毛細血管などの小型のものを「顕微鏡的多発血管炎」と呼び、美咲は後者である。

血管壁が炎症を起こすことによって、出血や血栓ができる。原因不明ではあるが、自己免疫異常が関連していると考えられている。

膠原病こうげんびょうの一種です。血液検査と生検から、血管炎であることは間違いないという結果が出ました」

こんな時どんな表情をしたらいいか、わからないもんだなと思う。
ドラマだったら泣き叫ぶだろうか?
現実味がわかない。

雪洋はといえば、喜怒哀楽のいずれにも偏らない表情をしている。
ただ、真剣に話をしているということだけは十分すぎるほど伝わった。

「足の紫斑は血管炎によるものです。関節痛、網状皮斑、コブができるのも。それと傷がこじれやすいのは、自分自身を異物として攻撃するという、免疫系の誤作動と思われます」
「そうなんだ……」

美咲はどこか、ほっとしていた。
現実味が湧いてこない今は、まずもってこの身に起こる、数々の症状の正体がわかったことの方が喜ばしい。

「どうして他のお医者さんたちはみんな『異常無し』って言ったんですか? 膠原病ではないって言ったお医者さんもいましたよ?」
「私は美咲から全身の様々な症状を聞いて、血管炎を疑いました。高齢者が多く発症する病気なので、私も最初は迷いましたが。……こういう言い方をしては何ですが、今までの医師たちは、診るべきところを診ていなかったのでしょう」

そうですね、と美咲は自分でも意外なほど冷静につぶやいた。

「傷なら外科へ、関節痛なら整形外科へ。でもそもそも外科や整形外科の範疇ではなかったんですね。そりゃ『異常無し』って言われますよね。――皮膚科だって、この指を見せても何もわからなかった」

全ては的外れだったのだ。
でも膝が痛いから皮膚科へなんて、誰が思うだろうか。雪洋のように総合的な見方をする医者もいなかった。
テーブルを見つめながら五年前の屈辱を思い出す。

「もしも五年前に先生と出会っていたら、私の人生、少しは変わっていましたか?」

雪洋はしばし黙っていたが、やがて「どうでしょうね」と静かに語った。

「今回は紫斑やこじれた傷が手掛かりになりましたが、五年前にそれはなかった。他の症状も今より軽かったとなれば、判断は難しいでしょうね」
「そう……ですか。どっちにしてもこういう人生ですか」
「これからは足に負荷をかけない生活を心がけてください。紫斑のもとになりますし、紫斑が悪化すると、崩れて潰瘍になりますから。極力傷も作らないように」
「でもこのくらいのことで難病って……。ちょっと大袈裟なような……」
「今のところ皮膚や関節の痛みに留まっていますが、血流というのは全身に関わりますから。悪くすると臓器にも、血流障害や壊死といった影響が出ます」

臓器。壊死。
恐ろしい言葉が出た。
そしてその先のことを想像した途端――
急に現実味を帯びて背筋が凍りつく。

「先生、私……どうなるの……?」

臓器が壊死――
否が応でも、ある言葉が美咲を支配する。

「私、もしかして死――」
「治療をしなければ、死に至ることもありえます」

そんなわけないでしょう、と笑い飛ばしてくれるのではという期待は、一瞬で散った。まさか本当に死という言葉を言われようとは――
めまいがした。

苦痛の毎日ではあったが、それはたかだか関節痛や指の腫れ。誰が死を思い浮かべようか。
なのに今、死という言葉が、急に目の前に迫っている。

「でも美咲の場合はそこまでじゃない。そんなに不安にならないでください」

そんなことを言われても「臓器」と「壊死」、「特定疾患」と「難病」という言葉は、驚異的な破壊力をもって、美咲の中を焦がし、焼きついてゆく。

「美咲の場合、正確には『確実』ではなく、『疑い』という判定になります」
「『疑い』? じゃあ血管炎かどうか、まだわからないってことですか?」
「いいえ、そういう意味ではありません。美咲は紫斑などの全身症状のみで臓器への異常は今のところありません。このような場合を『疑い』と呼ぶだけで、血管炎であることには間違いないのです」

希望の光はすぐに消えた。
だったら「疑い」なんて紛らわしい言葉じゃなく「予備軍」とか言ってほしい。

血管炎であることには間違いない――
だったらいずれ私は、こんな情けない体で死んでしまうのだろうか。

「臓器に影響がないので、今すぐ命に関わるレベルではありません。腎臓と肺が影響を受けやすいので、血尿や血痰が出た場合はすぐ教えてくださいね」

だからレントゲンや尿検査をしたのか。

「血液検査でもすぐわかりますから。定期的に採血して数値の変動を監視していきましょう」

定期的に採血……。
それは一体いつまで続くのか。

「基本的に気をつけることは今と同じです。激しい運動をしない、重量物を長時間持たない。紫斑が出た時は足を高くして安静に。あと感染症にも注意を――」
「あの……」
「はい」
どうしても聞きたい質問がある。

「私、治るんですか?」

雪洋はすぐには答えなかった。
言葉を選んでいる――という表情とも少し違う。
むしろ迷いのない、凛とした表情に見えた。

「『治る』というのは、どういう状態だと美咲は思っていますか?」
「どう……って、治るは治るですよ。風邪が治るとか骨折が治るみたいにきれいサッパリ。だから……紫斑や痛みが全部なくなって、昔の私に戻って、運動ができて……。この先二度とこんな症状にならず、ずーっと元気」

それが美咲の思う「治る」こと。
それが美咲の一番の願い。

「二度とならない、というのは難しいかも知れませんね。この病気は難治性な上に、再発性と言われています」
「それはつまり、治らないってことなんですか?」
「中にはまったく再発しない人もいます」
「でも再発する人もいるんですよね。……そうですよね、治療法がわからないから難病っていうんですよね。『治るんですか』なんて、……愚問でしたね」

治るのかと問うことすら愚問――
何だそれは。
それが私の現実なのか。

治らない病気があるなんて、――もちろん知ってはいたが、テレビで見るのと目の前で医者から言われるのとではこうも違うのか。

私の体はやはり異常があって。
この病気は悪くすれば死ぬ可能性があって。
治るか治らないかと言ったら、治らない――

「わかりました。先生、私お腹すいちゃった」
明るい声で立ち上がった美咲の顔には、五年前と同じ愛想笑いが浮かんでいた。

「……では、ごはんにしましょうか」
雪洋はその表情を目を細めて見つめていた。

食事中、病気に関する話題は何一つ美咲の口からは出なかった。
世間話を明るく話していたが、時々黙りこくり、その日美咲の食欲はあからさまに落ちた。


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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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