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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(9)

第1話あらすじ

「すっきりしたでしょう? 今まで言いたかったこと、粗方言えたんじゃないですか?」

横になった美咲は、ベッドに腰掛けている雪洋から顔を隠すように夏掛けを口元まで引き上げた。さっきまでの自分の乱心を思い出すと恥ずかしくていたたまれない。

「本当は止めたくなかったんですけどね。叫び足りないなら明日また聞いてあげますよ」
「いいですもう……。自己嫌悪で立ち直れません」

すっかり毒気の抜けた美咲を見て取り、雪洋は話し始めた。

「美咲はね、いわゆる人生の岐路に立っていると思っていい。白い道か黒い道か、どちらを歩くかは、美咲次第なんですよ」

穏やかに語る雪洋へ美咲は尋ねた。

「白い道と黒い道って何が違うんですか?」
「今よりも良くなるか、悪くなるかです」
「それって私の意志でどうにかなる問題ですか?  黒のレールに乗ってることは確実なのに」
「美咲はね、幸運にも中途半端なんです」
「幸運? これが?」

雪洋は少し身を乗りだし、言い聞かせるように語り出した。

「いいですか。たしかに今の美咲は白ではない。でも、黒でもないんです」
「中途半端なグレーですか」
「そうです。病が暴れているときや再発しそうなときは、グレーが濃くなって黒に近付いていきます。でも白にもなれます。美咲のような病気の場合、『完治』ではなく『寛解』という言葉を使いますが……」
「カンカイ?」

初めて聞く言葉だ。
雪洋がシーツの上に「寛解」と指でなぞった。

「数値が正常になっているとか、症状が治まっているとか、そういう安定している状態を『寛解』と言います」
「寛……解……」

「治る」とか「完治」という言葉が使われないことに、少なからず虚無感が生まれる。

「この病気はね、初期症状できちんと治療すれば、大部分の患者さんは症状が治まる病気です。何年かして寛解状態になったら、運動もまたできるようになりますよ」
「本当ですかっ? やだ先生、それ早く言ってくださいよ」

また何年もかかるのか、という思いよりも、何年か後にはこの苦痛から解放されるんだという思いの方が勝った。

「ね、幸運にも中途半端だと言ったでしょう?」

自分の目が輝くのがわかった。「完治」という言葉が使われないことには、虚しさもあるが。

「これからの美咲にとって大事なのは、気持ちの整理と決意をすることです。今より良くなりたいのか、悪くなりたいのか」
「あの、先生の言う『良くなる』って、寛解のことですか?」
「それもありますが、私が言っているのは寛解に限ったことではありません」

よくわからない。
小首をかしげると、雪洋は軽くうなずいて語り始めた。

「寛解は決して完治ではない。再発する可能性もあるということ。ここまではいいですか?」

少しためらってうなずく。
再発は嫌だが、寛解については理解はした。

「せっかく症状が軽くなっても、再発したら美咲はまた気に病んでしまうと思います」

考えるまでもなくうなずく。
あんなひどい紫斑がまた出たら、気に病まないわけがない。

「再発しないように日々努めることも大事です。でも一生付き合う病なのだから、たとえ再発しても敵対するのではなく、上手にコントロールしていけたらと思うのです。それが私の言う『良くなる』ということです」

「たとえ、再発しても……か」
弱々しくつぶやいて、美咲は目を伏せた。

「『悪くなる』の方は……わかりますよね? コントロールできずに重症になるということです」

難病に対する「治る」という言葉は、簡単ではない。複雑な心境ではあるが、そのことは理解した。

でも――
納得するのには、時間がかかりそうだ。

黙り込んでしまったので、雪洋が少し悲しげな表情を浮かべて問いかけた。
「やっぱり、治る治らないにこだわりますか?」

美咲は目をつむって、自分の気持ちを見つめた。

「先生と初めて会ったとき、神が現れたに等しい感動がありました。ようやく出会えた、きっとこの人が私を助けてくれるって。だから治るとはっきり言ってくれないのは、正直辛いし、悔しい……」

治ることだけにこだわるなら、とっくに道は断たれている。治らなくても、それでも道が続いているというなら、そこを進むしかないだろう。
――進むしかないのだ。

今までだったら、そんな風にはきっと思えなかった。誰といても孤独を感じて、うずくまって泣いていた。

でも今は、雪洋がいる。

誰よりも痛みを理解してくれて、誰よりもそばで寄り添ってくれる。独りじゃないと、思わせてくれる。

目を開けた美咲は、涙をためて微笑んだ。

「早い話が、『ものは考えよう』ってことですよね?」

身もふたもない言い方をすれば、つまりそういうことなのだ。でもそれは、これからのことを思えばありがたい教えであり、新感覚でもあり、でもやっぱり――

「がっかりしましたか?」
雪洋の静かな声。

いいえ、と首を振ったが、不覚にも涙がこぼれ落ちた。涙の方が正直だ。

一番の望みは叶わない。
もう、治ることはない。

 

毎晩恒例のマッサージを受けながら、美咲は雪洋に伝えた。

「まだ気持ちの整理はできないけど……。私、もう二度とあんな状態にはなりたくないんです。それだけは、はっきりしています」

雪洋と出会うまでの、この五年間のことが脳裏に浮かぶ。痛くて、悔しくて、何もできずに泣いてばかりいた日々。

「だから、……白い道をめざそうと思います」

わかりました、と穏やかに言って雪洋は美咲の頬に残った涙の跡を指で拭った。

「美咲はね、内と外の違いが大きすぎます。外へ気を使いすぎて、あとになってめそめそと泣く。そんなことを繰り返していれば心も体も病んで当然です」
「……私、自分で病気を作っていたんですね」

長い間こびりついていた卑屈な顔、卑屈な心。
それに体がついてきただけ。
そうして生まれた病は、もうこの体から出ていくことはない。

「あとは美咲がこの病をパートナーとして受け入れられるかどうかで、たどる道は変わってきます」
「パートナーだなんて……」
「まだ、無理でしょうね」
雪洋が困ったように笑う。

受け入れる気になんてなれるものか。
白い道を選ぶとは言ったが、今の正直な気持ちは、まだ拒絶的だ。

「これからは心と体にとって負担になるもの、癒しになるものを覚えていきましょう」
「この一年でそれを覚えるんですね」
「そうです。何も一年以上いたって構わないんですよ?」

雪洋の思惑が見えて苦笑する。
「先生、仕事辞めろって言いたいんでしょ」
当たりなのだろう。雪洋も苦笑した。

「美咲はどうしてそんなに仕事熱心なんですか?」
「生活のためですよ決まってるじゃないですか。先生だってそうでしょ?」
「美咲のは自分を潰す働き方です」
「じゃあ先生は?」
「適当です」

キッパリとした態度に「適当って……」と呆れる。

「無責任という意味の適当ではありませんよ。相応しい働きをしているという意味です」

そっちですか、と苦笑する。

マッサージで血行がよくなり、だいぶまどろんできた頃、
「美咲――」
雪洋が不意に口を開いた。
眠たい声で「はい」と返事をする。

「会社、辞めたらどうですか?」
「また先生はそういうことを……」

軽くあしらったが、雪洋は「本気で言っているんですけどね」とつぶやいた。

「私が美咲の親だったら、仕事辞めて帰っておいでって言いますよ」

少し沈黙してから、美咲はぽつりと言った。
「私、両親が他界してるんです。だから……」
だから働き続けることにこだわるのかも知れない。帰るところも、かじる脛もない。

「兄弟は?」
「姉が一人。もう結婚して家庭があるし、年に何回も会うわけじゃないし。だから自活していかないといけないんです」
「生活のために仕事は大事です。でも、仕事は最優先ではありませんよ。何年か療養して元気になってから働いたっていいでしょう」

雪洋の話を聞いて、何年かあとは元気なんだな、と思った。

「帰るところがないなら、養うって言ってる医者の申し出を素直に受けてもいいんじゃないですか?」

返事に困り、うーん、とうなりながら考えあぐねていると、それはやがて寝息へと変わっていった。


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