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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(10)

第1話あらすじ

  ●言わぬが花

目覚まし時計が鳴っていないのに目が覚めた。
たしかに何か鳴っている音がしたはずだと頭をもたげると、枕元のケータイが点滅している。どうやらメールの着信音で起こされたらしい。

親しかった同級生からだ。
久しぶりにメールが来た、という状況で、なんの用事か大体察しがつく。

『無事出産しました! 男の子です』

――やっぱり。
目に飛び込んできた文面に、美咲は寂しいような、うんざりしたような思いに駆られた。

二十七歳――
周りの女性たちには、人生のイベントが畳みかけるように発生している。

「普段なんの音沙汰もないくせに、こういうメールだけはきっちりよこすんだよなぁ」

近頃は年賀状を見るのもうんざりする。
新婚旅行の写真、赤ちゃんの写真、少し大きくなった子供の写真。
干支のイラストで間に合わせているのは自分だけじゃないかと思えてくる。

でも年賀状の方がまだマシだ。
メールで報告されたら返信しないわけにもいかない。

メールには続きがあった。
『美咲はあれから体大丈夫?』

……あれからってどれから?
自分でもわからない。一体何年前から友達に体が悪いと思われているのだろう。

ベッドから起きだして窓を開ける。
一階のリビングと美咲の部屋には縁側がある。
ここに腰掛けて外の空気に触れるのが、最近のお気に入りだ。

足を放り出してメールを見つめる。
心を無にして『おめでとう、良かったね』と打ち込み、棒読みで打った文章におめでたそうな絵文字を入れる。そんな作業ですら心が折れた。

あとは黙々と近況を打ち込んだ。
正直すぎるほど、詳細に。

 

今日から新しい薬が増えた。
血栓予防のための、血液をサラサラにする薬だという。

「この薬を服用していると血が止まりにくくなるので、いつも以上に傷を作らないよう気をつけてくださいね」

これで服用する薬は五種類になった。
そういえば前に処方されたステロイドや胃腸薬は、そろそろ飲みきってしまう。

「あの、先生」
「何ですか?」
「調子もいいですし、自分で薬をもらいに行ってもいいですか? 他の患者さんと同じように受付して、診察を受けて、処方箋もらって……」
「どうしてですか?」
「ええと……散歩がてら?」

嘘ではないが、本当は特別扱いすぎて肩身が狭いのだ。雪洋が薬を持ってくるから、薬代だって払っていない。お金を差し出しても、雪洋に適当に流され、結局のところタダ同然で住まわせてもらっている。ありがたいことではあるが、さすがに気が引ける。

「体力が戻ってないから疲れますよ。まだあまり歩きまわってほしくないんですが……」
「ゆっくり歩きますから。薬局もすぐ近くだし。ね? 先生」

美咲の熱意に負けたのか、雪洋があきらめたように肩を落とした。

「ま、いいでしょう。どのくらい疲れるか試してごらんなさい」

 

遠足の準備のようにウキウキする。
身支度を整え、バッグを持って玄関から出る。
景色を眺めながらゆっくり家の外壁をまわって、久しぶりに『こうさか医院』の玄関を開け――

その頃には完全に疲れ果てていた。
たったこれだけの距離で。

息が荒く、足がジンジンとして震える。
足の皮下でマグマが対流しているような。
こんなに体力が落ちていたのか。

院内は初めて来たときと全然違っていた。
患者さんが多く、受付にはスタッフもいた。

雪洋が用意してくれた診察券を渡すと、
「あら、あなた……」
五十代前半くらいの受付の女性が、美咲の顔を見て声をかけてきた。

「先生の『イトコ』さんね。呼ばれるまで座って待っててね」
にんまりと笑って「イトコ」の部分をわざとらしくハッキリと区切って言った。

雪洋がイトコだと言ったのだろうか。そうでないことを、この女性はお見通しのようだが。

「天野美咲さん、診察室へどうぞ」

雪洋の声。
どことなくいつもと違って聞こえる。
こうさか医院の高坂先生モードだ。

美咲もどことなくよそよそしく「失礼します」と診察室へ入る。
イスへ座ると、雪洋が軽く笑って質問してきた。

「お待たせしましたね。どうですか、お散歩は。疲れませんか?」

久々に見るスクラブ白衣の雪洋は、やはり家で見せる顔とはどことなく違う。新鮮なような、緊張するような。

「まだ大丈夫です。来たときは疲れましたけど、今は治まりました」

雪洋は片眉を上げて話を聞いていたが、美咲は今日の目的を一つ達成できて誇らしげだった。

「このあと、薬局にも行くつもりです」
最大の目的はそこなのだから。

笑顔で宣言すると、雪洋は「そうですか」とだけ言って、足を見せるように指示した。

「今のところは大丈夫ですね。あとは夜に見てみましょう。いくらか紫斑が出るかも知れませんね。お薬出しますから、呼ばれるまで待合室でお待ちください」

電子カルテに打ち込む雪洋に、思いきって聞いてみる。
「先生、あの事務の方……」
受付の方向を指差しながら目が泳ぐ。
「ヒカルさんですか? どうかしました?」

ヒカルさんというのかと思いながら、イトコと呼ばれたことを伝える。

「ああ、前に美咲が縁側に座っているのを目撃したみたいでね。嬉しそうに聞いてくるのでイトコって言っておいたんですよ」

……絶対に彼女だと思われている。

「そんなことより、いけませんよ庭なんかに出て。まだ安静にしていなさいと言ったでしょう。帰ったらすぐ休みなさいね」
「あ、ヤバ……」

小言をくらって、診察は終了した。

 

――人の気配にまぶたを開けると、雪洋の姿があった。薄暗い部屋でベッドのそばに立ち、美咲の足に異常がないか確認している。

「あれ? 先生? 夜? お帰りなさい。……すみません」

くすっと笑って「寝てていいですよ」と雪洋は言ったが、起きることにした。

「私、ずっと寝てたんですね」
近くの薬局で薬を受け取り、帰宅後、倒れこむようにベッドへ直行したことまでは覚えている。

「先生、何でヒカルさんに患者だって言わなかったんですか?」

唐突な質問に一瞬の間が空く。

「言った方がいいですか?」
「だってイトコならイトコで口裏を合わせておかないと、色々面倒じゃないですか?」
「ヒカルさんは大丈夫ですよ。粋がわかる人ですから、嘘だとわかっていてもそれを口に出す人ではありません。含みを持たせながらもイトコで通してくれます」

ヒカルの中では、美咲は雪洋の彼女にでもなっているのだろう。

「嘘だってばれているんだったら、最初っから患者だって言えばいいんじゃないですか?」
「言わぬが花。何もかも正直に言う必要はないんですよ」
「……わからないです。なんのために嘘をつくんですか?」

美咲は小器用なタイプではない。
人を欺くことが苦手だ。
だったら最初から何もかも手の内を見せていた方が楽だと思っている。

「入院できる病院ではないのだから、患者だと言ったところで変な目で見られますよ」
「それは……そうですけど」

いまひとつ腑に落ちない。
この先いろんな人間に会うたび、イトコだと通せばいいのだろうか。正直に言っていた方が、万が一トラブルがあってもこじれ方が軽く済むのではないか。どう立ち回ればいいのか、その指針がわからない。

美咲の不安げな表情を読み取ったのだろう。
雪洋が説明を始める。

「患者ですと言ってしまえば、たしかに間違いはないですよ。でもね、そうするとそのあと長い説明が必要になってきます。どういう病気なのか、どうして他の病院には行かないのか――」

雪洋の言いたいことが、わかった気がした。

「患者だと言うたびに質問攻めにあい、そのたびに説明をして、そのたびに――美咲が傷つくことになるかも知れない」

雪洋の想いが、美咲の中にスーッと染み渡る。

「先生は、私のために嘘をついてくれたんですね?」
雪洋は美咲が考えていることよりも、遥か先のことまで見通している。

「嘘というよりは、本当のことを言わないだけ、という方が抵抗がないですか?」

そうかも知れない。
まったくの嘘をつこうとすると、変に緊張してしまう。

「本当のことを言わなくてもね、察してくれる人はいますよ」
「そうでしょうか」

言ったってわからないのに、言わないでわかるなんてあるものか。

「『歩き方おかしいけど、どうしたの?』と聞かれたら、美咲、なんて答えますか?」
「え……っと……」

膝が痛くて、足の裏も腫れて痛くて、庇ってたら歩き方に変な癖ができて……。

「『一』質問しただけなのに『十』返ってきたら、相手には重すぎますよ」

考えていることを見透かされている。

「じゃあなんて答えたらいいですか?」
「『うん、ちょっとね』――これだけです」

にっこり笑う雪洋に美咲は目をしばたく。
それは答えになっているのか?

「それだけで? わかるわけないじゃないですか」
「わかる人はわかります。『人には言えないけど、何か大変なんだな』ということがね。そういう人は要所要所で気を利かせてくれますよ。さり気なく『あっちにイスあるよ』と教えてくれたり」
「でも、『ちょっとね』だけじゃ……」

どう大変なのか、どうしてほしいのか、本当のところがわかるわけないじゃないか。

「ここでの『わかる』というのはね、美咲が抱える症状の一つ一つのことではありません。漠然と、何かが大変なんだなということを『察する』ことなんですよ」
「察する……ですか」

「わかる」は細かいところへの理解というイメージだが、「察する」というのは……包み込んで大局を知る感じだろうか。

「そして美咲は『この人はさりげなく思いやってくれる人なんだな』ということがわかるはずです。そういう人を、これからは大切にしていきなさいね」

今までは一から十まで全て語っていた。
それは察してくれる人どころか、同情だけする人間――いや、同情の言葉だけを引き寄せていた気がする。

察してくれる人はきっと、言葉ではなく、心を寄せてくれる。

「もしも美咲が求めるものと少しずれていたとしても、その優しさを嬉しく思うはずです。美咲も優しさの受け取り方に、少し余裕ができると思いますよ」

余裕……。思えば今までの自分は、余裕もなければ融通も利かなかった。

「……痛い痛い言うの、もうやめようかな」

自分の状況をわかってほしくて訴えたつもりが、周りは重荷に感じていたのかも知れない。

「でも先生、『うん、ちょっとね』でわかってくれない人の場合は?」
「そういう人はね、根掘り葉掘り聞いてくるわりに、実際は美咲の身になってくれないものです。辛さを想像できないし、気遣いもできない。そういう人とは表面上の付き合いだけに留めなさい。美咲が辛いだけです」
「それは……わかる気がします」

別れた彼が、そういう人間だったから。

「何もかも正直に言う必要はない……か。わかりました。先生が私を守ってくれたということも、わかりました」

誰か一人でも、味方がいるというのは嬉しい。

「ま、ヒカルさんの場合は私が年頃の女性といるだけで楽しいんですよ」
「……それもわかる気がします」

親戚のオバチャンのような気持ちなのだろう。

「ところで。美咲の足、今はどういう状態ですか?」
「……だるいです」

言いつけを守らない美咲を叱るでもなく、雪洋は笑みを浮かべている。

「先生、なんで笑ってんですか?」
「笑ってますか?」
「笑ってますよ。それ見たことかって呆れているんでしょう?」

ふふ、と雪洋が笑みを漏らした。

「呆れてはいませんよ。美咲は今、いい経験をしているなと思っていたんです。勉強になったでしょう? 自分の体力の上限がどのへんかという」
「……大変勉強になりました。先生の言いつけを守らず、すみませんでした」

渋々反省の言葉を述べる。
相変わらず雪洋はにこやかに笑っている。

「足の状態、もっと具体的に感じてごらんなさい。体と対話するように、意識を向けて。どうですか?」
「……ふくらはぎがジンジンします。足の裏も熱を持っているような感じです」
「その状態を覚えておくんです。兆しが出てきたらすぐ気付けるように。調子がいいときでも、時々体の隅々まで意識を巡らせて」
「はい……」

せっかく体からサインが出ていても、主が気付かないのでは意味がない。

「それと不調なときはもちろん、好調なときもはしゃぎすぎないことです。心穏やかに、平常心ですよ」
「それ、お釈迦様じゃないと無理ですよ」

お釈迦様のように微笑んでいる雪洋にぼやいて、美咲はため息をついた。

 

数日後。
美咲のケータイが、先日とは別の同級生からのメールを受信した。

『生まれました! 女の子です! 逆子で大変だったけど――』
どうやら出産ラッシュらしい。

『ところで美咲は、体大丈夫?』
またか。
友人たちの間では「美咲=体調不良」なのか。
情けない。

でもこれは自分でまいた種だ。
ばか正直に伝えすぎた結果だ。

友達だから、と思っていたが、その友達は美咲の話をどう思っていただろうか。

――何もかも正直に言う必要はないんですよ。
雪洋の言葉が蘇る。

ああ、そっか。
――肩の力が抜けた。

目を閉じ、これから打つ文面を頭の中で練る。

――よし。
美咲は目を開けて、返信を打ち込んだ。
『出産おめでとう。私のことは大丈夫。心配かけたね。元気だよ』
これで自分でまいた種から出た芽は、いくらか摘み取れるだろうか。

送信するとケータイを机に置き、縁側に出て腰掛けた。

空を仰ぐ。
太陽の光が今日も見守るように降り注いでいる。
心地よい風が、頬をなでていった。

だがこの清々しい気分は、そう長くはもたなかった。


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