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【小説】東京ヒートウォール 第3話:ケンカ

(第1話はこちら)

フロントガラス越しに見る風景は、もう日が沈む準備をしている。

状況は何一つ変わらない。
ヒートウォールをこの目で見たというのに、一真は相変わらず無表情で、無関心そうで、ゲームオタクだ。

「アイテムが足りないのか。それとも他の誰かを仲間にしないと先へ進めないのか。なんにしても情報不足だな。街へ行って誰かに話を聞くか……」
「一真さん、そのゲームに例えるのやめてもらえませんか?」

人の妹が行方不明だというのに。
不愉快でならない。

「ゲームでも現実でもどっちでもいい。要はどん詰まりだってことだ」

それでも少しはこっちの身になったらどうだ。

「ゲームのパターンがわかると、イベント成功のために何をすべきか見えてくる。それに慣れると現実世界でも規則性が見えて、状況把握が楽になる。何が必要か、何をするべきか」

何をもっともらしく言っているのだこの男は。
怒りで夕子の拳が震える。

「あれは神の怒りかもな。東京はソドムとゴモラに肩を並べたか。いや、バベルの塔か?」

カッと、頭に血が上る。
気付いたら、一真の頬を思いっきり引っぱたいていた。車の走行がわずかに揺れる。

「やめてください! あそこには私の妹がいるんです! 大事な家族がいるんです!!」
「俺の家族ではない」
「他にもたくさんの人がいます! その人たちにも大事な人がいるんです!」
「でも、俺の家族ではない」
「大体一真さんだって東京に家があるんでしょう? 家族や友達もいるんじゃないですか?」
「家族はいない。身内はいるが。でもヒートウォール内に身内がいても、なんの執着もない」

何この人――
あまりにも考えが違いすぎて、夕子は一瞬言葉を失った。

「だったらあなたは、目の前で人が火だるまになっていても、俺には関係ないって無視するの? それがあなたの身内でも?」
「じゃあお前は、火だるまの赤の他人に手を差し伸べて、自分も火傷するのか」
「火傷くらいなによ! あなたみたいに黙って見てろって方が我慢できないわよ!」
「そういう偽善者まがいの発言は、本当に火傷をしたことがないから言えるんじゃないか?」
「じゃあ一真さんは火傷したことあるの? だったら相手の痛みだってわかるはずでしょ?」
「というかこの場合、水でもぶっかけた方がよほどいいな。自分が火傷しなくて済むし、運がよければ相手も助かるかも知れ――」

「――停めてください」
「なんだ? 妹いたのか?」

車が停まるや否や、夕子はバッグを引っつかんでドアを開けた。

「もうあなたの話は聞きたくありません! ここまでありがとうございました!」
「おい、どこへ行く」
「決まってるでしょ! 火だるまになりに行くんです! 指でもくわえて見てたらいいわ!」

叩きつけるように助手席のドアを閉めて、夕子は走って車から離れた。追いつかれないように細い路地へ路地へと入り込んで。

もう二度と、あんな男の顔は見たくなかった。


肉眼で見えるヒートウォールに向かって、夕子は裏通りをずんずん歩いた。

もうやだアッタマきた!
なんなのアイツ!

一真の言い草を思い出すと、どうにも治まりがつかない。夕子はケータイを取り出し、チャットアプリを開いた。

「朝美に全部ちくってやる!」
どこから伝えようかと文面を考えているうちに、
「あ……無理だ……」
ケータイを握る夕子の手が力なく落ちた。
「ケータイ、繋がらないんだった……」

チャットアプリの画面は、夕子が最後に送った「無事なの?」という文字で止まっている。

膝から力が抜けた。歩道にしゃがみこんで、自分の膝を抱きしめる。本当は朝美を抱きしめたい。

いつもなら、くだらない出来事から真剣な悩みまで伝えられる相手――朝美がいたのに。逆に朝美の愚痴を聞いてやることもあった。ケンカをすることもあった。

姉妹としてそんな当たり前のことを、こんな形で突然奪われるなんて。思いのやり場が見つからない。

――痛い。どこかが痛い。
何かが痛い。何もかもが痛い。
「朝美、朝美、朝美……っ!」
朝美に、会いたい――

ジャリ、とアスファルトの小石を踏む音。
――意外に近いところから聞こえて顔を上げる。

「あれ? 彼女、一人なの?」

真上から降ってきた男の声に、ゾクッと悪寒が走った。いつの間にか、30代くらいの見知らぬ男が隣に立っていた。――こんな近くに。

あたりに人気はまったくない。
男は一真よりもたくましい体をしていた。

男が覆いかぶさるように夕子の顔をのぞきこんできた時、口から漏れた臭いが鼻についた。タバコと――酒だ。

夕子の中で、本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。

――これは、相当、まずいと。

「具合悪いの? 避難指示も出てるし、危ないから車で送ってってあげようか?」
なんで酒臭いやつが車で送るんだ。
「車、すぐそこにあるから」
男が親指を立ててすぐそばの車を指した。別の生き物のような舌が唇をなめている。

――あれに連れ込まれたら、終わりだ。

一真と何が違うのか。
同じ初対面の男なのに。

この男と一真の根本的なところの違いを、夕子の本能は無意識に感じていたのだ。だから一真の車には、乗ることができた。

「ひ、一人じゃありませんっ。彼氏が……っ、彼氏がすぐ来ますから、大丈夫です!」

精一杯の虚勢。
あんな風に一真と別れて、正真正銘、今は独り。一瞬たりともひるんではならない。震える体に、一刻も早く逃げろと本能が叫んでいる。

「またまた、誰も来ないじゃん。遠慮しないで乗りなって」
男のいかつい手が、Tシャツから出ている夕子の二の腕をつかんだ。
「い……、いや……!」
生暖かくベタベタした感触に、全身が一斉に拒絶の反応を示す。全力で抵抗するが敵わない。

車まで引きずられ、男が後部席のドアを開けた。

いやっ、怖い……!
誰か、誰か……っ!

奥歯がガチガチと鳴る。
声が出ない。

強引に押し込まれ、男も同じドアから入ってきた。のしかかる男の体重に抗えず、酒とタバコの入り混じった不快な息が、夕子の首筋に届いた。

もうダメだ――
「――おい」

聞き覚えのある、抑揚のない声。
男の重みから急に解放される。
薄目で見ると、男は車の外で誰かに腕をつかまれていた。

誰……?
車の陰になって顔が見えない。
でも、ひょろっとした細身、よれよれのTシャツ、夕子でも勝てそうな、頼りない雰囲気――

慌てて体を起こす。
そこにいたのは、
「こいつ俺の連れなんだけど。何やってくれてんの?」
間違いなく、一真だった。

「マジでこれ彼氏なの? もったいないよ彼女かわいいのに。つぅか手、離してくんない?」

男はまったくひるまない。
ダメだ、一真の体形に説得力がない。
……これは負ける。

「いでででっ! やめろ! 離せテメェ!」

なぜか男から悲鳴が上がった。必死な形相に対して、一真は涼しい顔で腕をねじり上げている。
何か技をかけているのだろうが、一真はさして力を入れていないように見える。

「俺、合気道、師範代。わかる? 師範代って」
一真が表情を少しも変えずに言った。
男はぎょっとして、
「わかる! わかったから!」
あっさり白旗を揚げた。
一真に解放されると、男は慌てて運転席へまわった。

「お前もいつまで呆けてるんだ。行くぞ」
手を取られて車から引っ張り出される。
男が車で逃げ去ると、一真が呆れた顔で見下ろした。

「何黙って押し倒されてんだ。悲鳴くらいあげろ。それとも指でもくわえて見てた方がよかったか?」

相変わらずの無表情だが、眉間にかすかなシワが寄っている。――心配、してくれたのか。

「何もされてないか?」

一真からはタバコも酒も臭わない。
夕子の鼻腔をくすぐったのは、ガムの、ミントの香り。

「おい、返事しろ」

一真が口を開くたびにミントが香る。
さっきまでの不快感を、浄化してくれる。
夕子の体中の筋肉から緊張がふわりとほどけて――腰が抜けた。

「おいっ」

一真が咄嗟に支えてくれたが、足腰に力が入らない。細い腕と手指の感触にも、さっきの男のような不快感はない。ないどころか、ひどく安心する。そう思ったら急に、どうしようもなく涙がこぼれた。

一真が小さく息を吐いて、夕子を縁石に座らせる。
「泣くようなこと、されたのか?」
「されてないっ。されたけどっ」
「どっちだよ」
「私、もう……、本当に、ダメだと……思って……っ」
しゃくり上げて言うと、堰を切ったように夕子は泣いた。

助けに来てくれた。
誰か助けて、誰か――と言っておきながら、あのときなぜか、一真の顔しか思い浮かばなかった。


「師範代ってのは本当だ。じいちゃんが道場やってたから。合気道ってのは筋力勝負じゃないから、コツさえわかれば夕子だってできる」

ああ、なるほど、と夕子は心の中でつぶやいた。それなら一真が涼しい顔してあの男を追い払ったのも納得できる。
正直この細腕でさらりと助けてくれたことは、驚いたし、見直した。

「師範代だったけど、何年も顔出してないから、今頃破門されてるかもな」
「……なんで助けてくれたんですか? あんな別れ方したのに」
だいぶ落ち着きを取り戻し、鼻をすすりながら問う。

「イベントっぽいだろ? さらわれたお姫様を助けるっていう、さ」
一瞬で評価はゲームオタクに戻った。

「……またそれですか。火だるま助けて火傷するのは嫌だったんでしょう?」
「こういうイベントは、クリアしといた方がいい。何かがいい方向に動き出すからな」

はぁ、と曖昧な返事をする。
またこの男は何を言ってんだか。
でも――
「助けてくれて、ありがとうございました」
来てくれたのは、本当に嬉しかった。……本当に。

「じゃあ私これで……」
ようやく力が戻ってきた足腰で立ち上がろうとしたが、
「おい」
一真に引っ張られて、再び座り込んだ。

「なんですか? 私『おい』って名前じゃありませんけど」
「意外とガキだな」
「親のすねかじりのゲームオタクに言われたくないです」
「じゃあ夕子」
「……今日会ったばっかりで亭主みたいに呼ばないでください」

不覚にも動揺を覚えたのは、急に呼び捨てにされたせいだけではない。前髪の隙間から夕子を見つめる、一真の視線とぶつかったからだ。

「何か用ですか? 助けてもらったのは感謝してますけど、私さっきのケンカで言われたこと、納得したわけじゃありませんから」

ケンカ? と一真がきょとんとした。

「ケンカか……。そうか……ケンカ……」

何度か繰り返すと、一真は夕子の目をまっすぐに見つめ、突然自分のことを語り出した。

「東京にいる身内というのは、父親のことだ。離婚して母親は東京にいない。父親のすみかは被害に遭っているだろうが、本人は今日東京にはいなかったはずだ」
「……よかったですね」

正直うらやましい。
家族の安否を心配しなくていいということが。

「身内になんの執着もないって言ったのは、あれは父親に対してだ。俺はあの人を父親と思っていない。連絡も業務連絡のようなことがたまにあるだけだ」
「お父さんのこと、……嫌い、なの?」

触れていい話題なのか迷ったが、一真自身が淡々と語っているから思い切って聞いてみる。

「好きとか嫌いじゃない。滅多に家にいなかったから父親というものを知らなかったし、父親らしいことをしてもらったこともない」

なぜ一真は突然こんな話を始めたのだろうか。そう思って見つめていると、「だから……」と一真が口ごもった。

「俺の言いように腹を立てたようだから、誤解があるなら言った方がいいと思って」

これは……もしかして、この人なりに謝っているの? だとしたらこの人、意外と素直な人なのかも……

夕子は一真に気付かれないように小さく笑みを漏らした。まったく、無愛想の仮面がまぎらわしい。

「わからないんだ家族というものが。執着ないと言ったのは、だから、そういうことなんだ」

言葉を探し、選び、懸命に伝えようとしている。今話してくれたことは、きっと嘘偽りのない、一真の本当の言葉。

それだけに夕子は思う。
この人は家族を失う恐れを知らない代わりに、ずっと独りだったのだ。どちらが幸せかはわからない。けど――

夕子はそっと腕を伸ばし、一真の頬を両手で包み込んだ。そのまま自分の方へ、ゆっくり引き寄せる。

「……おい。お前、さっきの今でそういうことするか?」

呆れるのも無理はない。夕子は一真の顔を自分の胸元に引き寄せ、抱きしめているのだから。

「これは、そういうんじゃなくて、……母性です」

自分でも何をやっているんだと思う。
母親代わりとか、そんなおこがましいことは言えない。ただ一真にはこうしてあげる人がいなかったのかと思うと、抱きしめずにはいられなかった。

「妹が泣いてる時、よくこうしてました」
「俺は妹じゃないし、泣いてもないぞ」
「わかってます」

自分の行動を上手く説明できないでいると、一真がほんの少し優しい声で聞いた。

「寂しくなったのか? 妹がいなくて」

それもあるが、今はただ一真に伝えたかった。異常気象の熱ではなく、人のぬくもりというものを。ぬくもりに包まれることの、安心感を。

「母性……か」
一真が夕子の背中に腕をまわした。
「それも悪くないな」
すがるように、すり寄るように、一真が抱きしめてきた。

夕子は、母が自分にそうしてくれたように、妹に自分がそうしたように、一真の髪をそっとなでた。

前髪をよけてやると、そこに現れたのは意外と秀麗な目元――などとひいき目に見てしまうのは、きっと危機的状況を助けてもらった「イベント」のせいだろう。
鼓動がやや大きくなったのを気付かれないようにと、夕子は慌てて、でも冷静に、前髪を元の位置に戻した。

一真は目を細めて、ゆるやかな呼吸を繰り返している。穏やかな時が、流れていた。

「お父さんのことを言うために、わざわざ追いかけてきてくれたの……?」
「それもある」
一真が大きくため息をついた。
「飽きたから戻ってこい」

――は?
飽きたから? 戻ってこい?

「飽きたってなんですかそれ」
「飽きたは飽きただ。戻ってこい」

偉そうな態度に、夕子の口端が引きつった。胸に顔を埋めている一真を雑に引っぺがす。

「戻ってこいなんて亭主みたいに言わないでください。それに飽きたってなんですか? 私はあなたの娯楽施設ですか? それともまたイベントってやつですか?」

怒気を浴びた一真は、目をそらして面倒臭そうに――あるいは困ったように、頭を掻いた。

「その、つまりだ。飽きたってのはつまり……」
一真が頭を掻く手を止めた。
「お前がいない状況にだ。お前がいないと、つまらん。娯楽施設って意味でもなくて」

心に沿った言葉を探すように、一真は続けた。

「お前と話しながら旅をするのは、結構おもしろい。さっきの……お前は『ケンカ』と言ったが、俺には興味深い討論だった。誰かとあんなふうに言い合うのは、初めてだったから」

討論……。なんだか堅い言葉だな、と夕子は顔を歪めた。

「だから、お前の気が済んだのなら、そろそろ戻ってこい」

普段は仏頂面だが、一真は見た目よりもずっと、素直で、甘えたいだけなのかも知れない。

「あー『お前』じゃないんだったな。『夕子』……もダメか。じゃあ、『夕子ちゃん』」
ぶっと吹き出す。
「何がおかしい」
「だってその仏頂面で『夕子ちゃん』って」

ほらやっぱり、見た目と中身が全然合ってない。それがとってもおかしくて、とってもかわいくて、ほんの少し、愛おしい。

「もう、『夕子』でいいです」
「じゃあ最初からそう言え」
「はい、ごめんなさい」

顔に力が入らない。
私の負けだ。

「やっと笑ったな」
一真がホッとしたようにつぶやいた。

「一真さんは言い方で損するタイプですね」
「わかってるならそれでいい」
「『それでいい』じゃなくて、直した方がいいと思いますよ」
「……前向きに検討しとく」

言い方が堅いですよ、などと戯れながら、二人で一真の車へと向かった。

時折一真からミントの香りがすると、夕子のセンサーが過剰に反応した。
心地良いような、
キュンとしめつけられるような、
もっと近づいて嗅いでみたいような。
そんな感覚に襲われた。




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