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してしまうこと、しまったこと


生きるとは、してしまうことを繰り返すことだ。

してしまった記憶を思い出してしまうことであり、してしまう予感を感じてしまうこと。

してしまう前から見て、してしまうことは理由はなく偶然なのに、
してしまった後から見て、してしまったことは過去に決定された必然になってしまっている。

何も殺したくないのに殺さないと生きていけないし、
砂遊びはいつまでも楽しいはずなのにいつのまにか扶養側に立っている。

性欲で不倫することも、
週刊誌報道することも、
ネットの有象無象のつぶやきも、
鹿が農作物を食い荒らすことも、
鹿を害獣として殺すことも、
子供を産むことも、
子供や動物に愛着を持つことも、
いつのまにかしてしまっていることだ。

してしまったことをあとから説明しようとしても拙くたどたどしい弁明以上のものにはなり得ない。
どうしてしたのかを説明し切ることができない。
弁明をしない鹿や子供の目ばかりが事実として深く記憶に残る。

どうして東出はわざわざ山に行き鹿を殺すのか。
鹿の目に映る自分自身の残酷さを想像してしまいながら、
鹿をかわいそうに感じながら、
鹿や子供を自分に重ねながら、
どうして銃で撃ち、
あの無邪気な目から血が吹き出してモノに食べ物に変わっていくまでを見届けるのか。

私には彼が苛まれているからだと感じた。
思い出してしまうからであり予感を感じてしまうからだと。

彼は少なくとも一度死んだのだ。
彼岸に近づいてしまったのだ。
彼岸を見てしまったものは生活から乖離するし、
生活から乖離したものは彼岸を見る。

彼岸は人を魅了してやまないものだ。
万有引力のように彼岸に近づけば近づくほど彼岸の引力は二乗分強くなるようなものだ。(=情念引力の法則(郡司ペギオ幸夫))

東出が狩猟を生活に組み込んだのは私にはとても自然に思えた。
彼が強く厭う清潔な社会とはしてしまうことをみないようにあらかじめ設計され続ける社会だ。
そこではオタク、反出生主義、ベジタリアン、ポリコレ、ナチュラルメイクが流行る。

そもそも俳優の仕事、演じることは彼岸を身体に呼び込もうとすることだ。
それは本物を探す行程であり、
常に失敗が約束された賭けであり、
不完全なものになることが決定されている。
それでいて不完全であることによって何かを伝えてしまうという意味で成功するかもしれないような賭けだ。

そんな賭けを繰り返している俳優は彼岸との距離が近くなり、その分してしまうことに対する感度が高くなる。そして高い感度のまま役者はしてしまったことを掘り返してしまう。

そんな俳優が今のような清潔な社会と相性がいいわけがない。
死に近づいた人が、死も生もあらかじめ漂白され外れてしまった人が匿名化され生きにくく自殺や安楽死が増えていく社会と相性がいいはずがない。

俳優とは今の時代には数少なく生き残っている学者だ。(ほとんどの学者はただ筋トレ=脳トレしているだけだ。)
数少ない本物を探し続ける醜い生き物だ。
だからこそ矛盾と乖離に苦しむ。
矛盾と乖離に苦しむからこそ長い時間ののちに、彼岸を垣間見、いつのまにか創造に至る。

私は乖離した人がどのように生きていくのかに強い興味がある。
社会から浮いた人、乖離した人、彼岸を見ようとしてしまうほど彼岸に近づいた人はどうやって生きていくことができるのか。(乖離するまでのプロセスは痛々しいものであることが多い。)

これは私情からきている。
私はたぶんもう社会から乖離している。
人が話しているのをみても言葉の質量はあまりにもないし、口や目が白い紙のように見えてしまう。

乖離したまま離脱しきらず現実を生きることは、苦痛を苦痛以外のものに変換し受け入れる術によるものだ。(=ドゥルーズ的マゾ(千葉雅也)?)
金原ひとみ、村田沙耶香、平山(映画『PERFECT DAYS』)、東出のそれぞれが共通する部分がありながらも異なる生き方で現実の組み替えをしているように感じる。

金原ひとみは依存できるもの全てに依存しながらも現実での怒りや寂しさや退屈を文章に活かし、
村田沙耶香は現実を寓話化し空想世界として組み替える実験をしているし、
平山は程よく余裕のあるルーティンの中で変わりゆくことを問いとして見出し答えることを繰り返し、
東出は時々依存しながら本物に近く矛盾を感じる狩猟や演技に活かす。

そのうえで程度の程度はどうすればいいのかが本質的だ。
たとえばどの程度本物を探せばいいのだろう。
本物を探すのが常に不完全になることが決定づけられているのだとしたらどの程度で中断することが成功なのだろう。

芸術と生活はその両立もふくめて程度の程度の話としてある。
疲労、金銭、時間による中断が程度を決める大きい要因なのだとしたら、その程度にどの程度頼りない意志を持って向き合えばいいのだろう。

中断されることを見届けることが意識にできるせいぜいなのだとしても、それに納得したいというのも愚かで愛らしい人間の意識だ。
美しく納得できる中断はどこにあるのか。
その能動性は往年の舞台俳優の日頃の準備のようなものだろうか。

その上で、してしまったことから生じる傷という彼岸にはどのように向き合えばいいのか。
無際限の傷の多さと深さに対して、
意識の頼りなさと忘却を抜きにしたとしても、常に有限の償いしかできない。
仮に無限の傷がそれぞれ収束するものだとしても、傷と傷に対する償いは無限に繰り返される。
このように生きることはアキレスと亀のように一生埋まらない隙間を生み出し、多かれ少なかれ痛む瘡蓋になる。


初めて体験したお葬式のことを思い出す。
いつだったかおじいちゃんが亡くなった葬式のこと。
どうして棺の中に花を入れるのかわからなかった。
どうして新たに花を殺す必要があるのかわからなかった。
お経って木魚ってどうしてあんなにも変なのか。
どうしてみんな黒い服を着ているのか。
周りが泣く中で私はどんな気持ちでいるのがいればいいのか。

見えるもの、聞こえるもの、臭うものの全てがへんてこだった。

傷に対する向き合い方は論理によって決まらない。
謝ればいいのかお経を唱えるのがいいのか罪悪感を感じればいいのか。
それらとその程度はあまりにも人間的にただ実践される。反復の末に儀礼的に実践される。
(そもそも自然法則も含め、あらゆるものは儀礼的反復による。論理も行き過ぎた儀礼や人間的実践から取り出されたアーカイブなのだろう。)

傷に対して向き合うことは失敗した確信と成功した確信の両方を生む。してしまったことの償いもしてしまったことになるのだ。
こうして、彼岸とはしてしまったことであり、それはしてしまったことであると同時にしてしまったことの償いも含む。

俳優とは彼岸を俳優自身の身体に宿すと述べた。
同じように文章を書くことやその他芸術は、彼岸を文字や絵の具などの他の身体に宿すことだ。
ある身体を通じて他の人や生き物などの身体に伝えることだ。

もうすぐ埋もれてしまう、してしまったことを、
一本化された歴史と目の前の現在から外れるものを、
誰かの記憶からそのうち消えてしまう傷や償いの失敗を、
現在に戻すことは、演技や文芸、雑談などの芸術的なことにしかできない。
その発掘は、かろうじて記憶が残る他の何かや記憶を喚起する身体(本や宝箱や遺物などの物体)を必要とする。

人間が出来るせいぜいのことは、
記憶しておくことと伝えることなのではないか。
歴史が一本道のように思えるものばかりが最適化される傾向が強くなった情報通信優勢の時代において、一本道になる前を覚えておくことなのではないか。
宝箱を残しておくことなのではないか。
人間の勝手な記憶力と感情をもって、やっかいな瘡蓋を見つけだし剥がすことなのではないか。

失敗も伝えられるのが伝承であり物語である。
それは人間の愚かさの裏返しの智慧だ。
それは人間に失望すればするほど強くなるのだ。

私は結局どう生きていくのがいいのだろうか。
それは常にわからないしわかることはない。
暫定的に『コンビニ人間』(村田沙耶香)と『俳優のノート』(山崎努)(東出が俳優の必読書としてあげた本だ)を読みながら、添加物まみれのハンバーガーを作ろうかと思っている。 


それは乖離しながらも紙の身体を真似しながら紙となった私の身体に添加物と油を染み込ませ、福笑いとして文章を書き換えるような生き方だ。

そんな生活の中で、コンビニ人間は表面から俳優のノートは底面からそれぞれ支えてくれる。両方揃うことによってバランスが保たれるだろう。

それにハンバーガーチェーンはもっとも彼岸に近い場所の一つでありながら、もっとも此岸的である最も面白い場所の一つだ。
もうすぐグラウンドゼロに沈むもの、遠海から打ち上げられたものが一時立ち寄る波打ち際だ。

それに「普通」の生活をしていようとその生活を異常に観察すれば、それなりに自分は楽しめる。
そもそも今の私にとってもっとも面白いと感じるのは例えば未亡人や独身の高齢女性であり、世界一周をしている人間や成功者ではない。

私たちはいつのまにか違う生き物に変身してしまっている。
死ぬまでにできているせいぜいのことは失敗を伝えることと変身することだ。
俳優という生き方には生きるということが濃縮されている。
文章を書くことも何個も生き方、物語を並列させてたくさんの分身を作る。
分身それぞれに生温かさを感じる。

参考
東浩紀、千葉雅也の本やインタビューのほとんど
東浩紀編『ゲンロン5 幽霊的身体』
郡司ぺギオ幸夫『創造性はどこからやってくるか』
映画『WILL』『PERFECT DAYS』『熱のあとで』
金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』などとインタビュー
村田沙耶香『コンビニ人間』などの著作とインタビュー
山崎勉『俳優のノート』
宮地尚子 ほとんどの書籍
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』(鷲田清一と村田沙耶香は概ね同じことを言っている。)
漫画『海が走るエンドロール』


P.S.
MOROHAの音楽がもともと苦手だった。
若すぎると感じていた。青春豚クソムシのような感じがしていた。
映画『WILL』中の編集で印象が変わった。『革命』のはじめの乾杯が献杯に聞こえた。
それは若さの中に始まる老いだった。
東京事変の『緑酒』の乾杯に近く聞こえた。


現実から乖離したまま生きていく例として、
金原ひとみ、村田沙耶香、平山、東出を挙げたが、村田沙耶香は子供のように遊び、金原ひとみや東出は動物のように意志が強く、平山は植物のように生きているような印象の違いを感じる。

なお、ここ数回のノートは最近触れた言葉の意味を知るためにも、東浩紀や千葉雅也の語彙を中心として言葉を組み立ててきた。
そのため、二次創作的ではあるが現代思想入門のようにもなっているので、そういうふうに読んでもらっても良い。
上で書かれたものは、ただの決断的、断定的に書かれたものというよりも、少なくともこれはいえそうだというものを、これまでの思想の流れを意識して書いたものだ。
その流れ自体に意味があるので、参考文献を当たってもらいたい。
フィクション以外で決断的、断定的に書かれたほかの文章とは歴史の厚みの違いが異なることを体感して欲しい。

そろそろ一度そこで使われている語彙や知識から離れてもいいだろうと感じてきた。
私に今必要なのは知識ではなく生活と芸術であり実践だ。
ここらへんで中断をしてもいいのかもしれない。


※論理は決まらないとしましたが、論理なるものは論理「的」な形で仮固定として決まってしまいます。なんか誤解されてされそうなので補足。

前回の続きとしても読めるので前回の記事。

あと乖離という言葉って便利ですね。

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