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綺麗なことばかりじゃないなんて、みんな知っている - 上田義彦写真展「いつでも夢を」@代官山ヒルサイドテラス・ヒルサイドフォーラム

ご機嫌いかがでしょうか。
さきほどヤクルトを飲もうとして2滴こぼしてしまい、シロタ株とやらが何億個失われたのか、気になって仕方がありません。

東京・代官山で行われていた「上田義彦写真展「いつでも夢を」」に、最終日に駆け込みました。
最終日は朝11時からオープンとのことで、あさイチを狙いましたがすでに小さな列が。

建物は大きなガラス窓に白い壁、入り口までのアーチは大きな木々が夏の日差しから建物と人を守るように枝葉を伸ばしていて、
木陰が道を作り、そのままギャラリーの外から中へと地続きとなっているような気持ちのいい広がりを感じられます。
中は白を基調としていて、正面の吹き抜け部分にも大きなガラスが。陽の光が柔らかく取り入れられています。

こちらの展覧会では写真家の上田義彦(うえだ・よしひこ)氏が1990年から2011年にかけて
サントリーウーロン茶のCMのために撮られた広告写真を展示していました。
中国は桂林、瀋陽、上海、大連など中国各地を巡り撮影され、この旅で出会った多くの一般の方々がそのまま広告に使われているそうです。

私としてはまず、小学生のときに見ていたCMなのでまず「懐かしい~!」わけですが、同時に当時は気づかなかった中国という国の歴史の変遷の一部を垣間見ることとなりました。

1990年当時の日本はバブル真っ盛り、元号が平成になったばかりのころ。
翻って中国はその1年前に天安門事件が勃発、江沢民が台頭し、93年には国家主席に。
発展途上と言われた大国が証券取引所の設置や銀行開設、香港返還などを経て急成長を遂げ、経済大国へと発展した時期でした。

そんな激動の最中の中国へ赴き、大きな大陸で起こる、大きな時代のうねりの中で、ひっそりと暮らす人々の日常を切り取った作品の数々には、広告用に撮影されたからという理屈を超えて一瞬一瞬に、生活のきらめきが映り込んでいます。

女性の被写体が多く撮られている本展。若い女性から年老いた女性まで様々に、若さという躍動と老いという幸福。

美しく映っていれば写っているほど、私は写真に痛みを持って接していることに気が付きました。
それが外国の女性たちであろうと、同じ国の女性たちであろうとも。

***

この写真展を見たちょうど3日後、生理がやってきて、体のところどころが痛くなりました。
私の生理痛は毎回場所を変えてどこかが痛くなるタイプで、あるときは頭痛と胃痛、あるときは頭痛と腹痛と吐き気、といったように、毎回組み合わせが異なります。
そういう時は決まってケミカルに頼り、胃薬・痛み止め・整腸剤・鉄剤を一気に流し込みます。

痛いのは身体だけではなく、心にもしっかり影響がでます。
鉛が脳から垂直にドスンと降ってきて、みぞおちのあたりでゴロゴロと居座って大きな顔をしています。

年齢と共に経血量も少なくなって、なんとなく生理との別れがちらほら見えてきていて、
子供を持たない人生だったなぁとか、生理が終わるとめでたいどころか、体が骨が、弱くなっていくんだよなぁなどなど、
どんどん可能性とか元気とか、持っていたものを取り上げられていくことに目を向けていくうちに、「あ、鬱っぽい、さすが生理」と気づいて、
考えることを一旦ストップして体をその場でブンブンひねり回すくらいの知恵を身につけていることに我ながら英知を感じたりします。

生理中に何かしらで落ち込んだ時は、何かのせいにしてみたりします。
この辛さは、痛みは、ホルモンのせい、気圧のせい、大きな音が響きやすいこのマンションのせい。
最初はそれで割り切ったつもりでも、心の隅っこにある鉛の塊は消えません。

私は何がこんなに辛いのだろう、本当に痛みだけの問題なの?言いたいことがあるんじゃないの?誰かに聞いて欲しいんじゃないの?と
泣きながら枕を殴って、何にもできずに布団の中でジッと時が過ぎるのを待つ。

こんな時、物事を良い方向に捉えることと、悪い方向に捉えること、どちらが労力を必要とするのだろうと考えたりします。
前向き・後ろ向きなどとまるで駐車方法のように言われる感情論ですが、我々は車ほどわかりやすくない。
前向きに!と言われれば「うるさい」と思い、後ろ向きになったところで自分に「うんざり」。
誰かに助けを求めようにも、助けってどうやって求めるんだっけ? 何から助けてほしいんだったか……。こんなことの繰り返しです。

生理痛のない女性もいるし、生理が辛くない人も、生理が生まれつきない人もいます。
痛くたって日常は待ってくれないけれど、痛くなくたって、日常は待ってくれない。
身体からは血は流れなくたって、胸の奥からはドバドバと垂れ流しているときがあるのです。

痛みの伴わない人生を、痛みを抱えながら、長いこと必死で探し続けているような感覚。
そんなものはないととっくに知っているはずなのですが。

美しい女性の写真を見るたびに脳裏をよぎる、痛み。
こんな綺麗なことばかりではないと知っているけれど、でも、この美しく見える一瞬を否定はしたくない。
私は被写体である彼女を知らないけれど、ずっと昔から知っているかのように、思いを馳せていたのでした。


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