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ホームスクーリングがいらない国の在り方

【ホームスクール研究】メンバーシップ共有記事です。

 ホームスクーリングが合法である国とそうでない国があることは、よく例として挙げられています。しかし、その法制度の内容は国それぞれで違っています。その違いは、歴史的背景や文化的背景が重要な要素になっているといってよいでしょう。そのあたりを整理します。そこからどんな課題が生まれるでしょうか。




オランダ:移民も多く、合意形成をしていく過程を大事にするため

「教育」とは、「社会のあり方」だ
オランダの教育の大きな特徴は、自立した市民を育てるための「自由と責任」のバランスの取り方にある。自立した市民とは、幸せとは何か、自分は何者なのかということを自分で定義できる人間をいう。その定義する力を養うための教育が初等教育から行われる。先生も保護者も教育に関して主体的な人が多く、教育を人任せにせず、互いに協力し合うという土壌もある。また、移民も多く、合意形成をしていく過程を大事にするため、ホームスクーリングは原則禁止されている。違う者同士が学校という空間に集い、互いを許容し、認め合うということを教育したいからだ。そうでなければ社会は瓦解する。教育と、社会のあり方は不可分だ。

東洋経済education×ICT education特集
「元・公立高校教諭が見た「子ども幸福度1位」オランダの教育、日本とは何が違う?」

 「寛容な国」「多文化主義」のキーワードがオランダの話題の中に登場します。思い出すのは、移民との間に起こる痛ましい事件のことです。どこで読んだのかは残念ながら思い出せないのだけれど、文化的、歴史的な背景を異にした思想や習慣、観念の解釈のすれ違いから起こった悲しい出来事なのだと私はそう感じました。
 それを機に、【互いを知る、多様性を知る、対話する】ことに方向を転換していった政府の決断があったのだろうと思うのです。

 オランダもそうですが、ドイツでもホームスクーリングは禁止あるいは違法という位置づけとなっています。そのことが日本で紹介されるときのテーマは「教育」です。それはとても単純な構成で描かれます。


・すばらしい教育
・先進的な教育

・教育は国(政府)が国民に与える
・国が教育方針を決定する

「日本も、教育先進国のやりかたを見倣う(みならう)べきだ」


 そんな構成はホームスクーリングに反対意見を持つ人が好み、懸念を抱く人の不安を刺激します。「やっぱり、そうか…」と納得して「その通りなのだろう」と判断するのです。「それが事実だ」と記憶に残るのでしょう。理解できる範囲で肯定することで、安心を得ることができます。情報は時々そのように消費されていることは忘れるべきではありません。

 ホームスクーリングを推進する人々や賛同する人々は、《ホームスクーリングでは、その部分をこのようにして埋め合わせることができる》といった代替案の観点で述べるでしょう。

 両者とも「日本の教育は問題である。不足がある。」意識を方向付けされます。そしてどちらも”教育は国が担うものだ”と前提が置かれていることには疑問を持っていないように見えます。

 わたしたちは、自由を主張する権利を持たされているように思っていますが、実のところ、内面化された”規制”から自ら解放されてはいないのかもしれません。非常に、難しいことなのかもしれません。


ドイツ:国の教育と親の教育は等位であり、教育任務を配分している

 ドイツもまたホームスクーリングが禁止されている国のひとつで知られています。


国が完全に管理する学校の教育と親の教育は、等位の独自の教育任務を配分する

・国は完全に学校を監督することができる前提の元、”知識の伝達”は体系的に教育をおこなう点で、親がおこなうよりも高い教育効果が得られる

・親の教育の役割は、”価値感や世界観の伝達”にあり、学校がそれを侵害することはない


参考;『ドイツ基本法7条1項と就学義廣澤 明(​2017年)


 ドイツで例外的にホームスクーリングが認められるのは、病気を理由にした場合で、就学義務を怠った親には罰則規定があるとのことです。ホームスクーリングが認定される場合は、親に学校と同等の教育力が認められるなどで、その判断をするのは家庭ではありません。
 日本でもホームスクーリング制度を考えるとき、”罰則規定”と”認定条件”は必要だという意見をよく目にします。しかし仮にそういった制度が日本でも整備されたとして、ドイツと日本で大きく異なる点は、学校もしくは国と親(家庭・保護者)の関係性ではないでしょうか。

学校と家庭の等位とは

 日本では長らく、家庭の教育の役割は学校の補完的なものと位置づけられてきました。今もなお、その思想観念は正しいと判断されがちで、その意思に服従する空気があります。
 日本において民主主義的な価値観念は、戦後も一向に育たず(むしろ巧妙に阻害されつづけてきたといえる)、教育は学校が一手に引き受ける方向に向かいました。現場はどんどん重荷になっていく一方のようです。
 家庭も学校に丸投げの実態が生まれています。「丸投げ」の言葉に勘違いしてほしくないのですが、家庭教育の自立性が失われ、学校教育の補完を家庭が担うものになっているという意味です。親から子へそそがれる視線が、いかに「学校で教わる通りにできているか」の学校評価になっていることは非常に衝撃的な事実です。「先生はなんといった?」「先生はなにをしろって言った?」「先生に怒られるよ」。そんな親の声掛けが、あたかも家庭の役割だと信じて疑わない在り方があります。
 それは学校と家庭が等位にあるとは言い難い構造です。

家庭の自律と自立

 家庭の自立性が奪われた結果、家庭の自律性も奪われていることになったのではないでしょうか。
 
 家庭の自律性が奪われたことで、家庭は”家庭教育”の指針を手放します。”学校教育”の指針に依存するのです。
 すると学校への要求が肥大するのは当然にように思えます。
 「子育て=教育の成果」といわんばかりに、学校に評価と判断を求める傾向が強くなっていっているのはそのためだといえるのではないでしょうか。
 家庭すなわち、子の教育面を学校に代わり担当することになった親・保護者達は、学校や世間からの評価にさらされることになります。学校からだけではなく、世間一般も「家庭は、学校に従うもの。国の教育に従うもの」の空気に満ちています。なぜなら、彼らもまたそのように育ち、教育を受け、社会で働いているからです。

 家庭と学校の間は相互に影響し、期待と要求が絡み合います。

 教育指針を学校の方針に依存した家庭は、その「教育の成果」が出ない場合は次になにを期待するのでしょうか。
「どうすればよいか」です。

 自立と自律を奪われた家庭は、「どうすればよいか」の主体を学校に委ねています。「なにをすればよいか」も同じです。その結果が評価されるのは、主体である学校です。
 もし、その成果が得られなかったどうでしょうか。
 指導を正しく理解して、実践できなかった家庭の責任が問われます。それが「家庭教育力の低下」といわれるゆえんと言えるでしょう。
 家庭は自ら進んで、教育の主体を学校にゆだね、学校はその結果で家庭を評価・指導します。それは学校教育がそのように在るからにすぎません。

 教育の成果が得られなかった責任の一面を学校も問われます。「家庭に対して、なぜ正しく指導することができなかったのか(なぜ、うまく家庭対応が処理できなかったのか)」と指摘される点です。それは家庭からも、上位の教育機関からも、そして世間からも問われることになります。こどもたちの教育の責任の一切が、学校にゆだねられていることがここで浮き彫りになっていることが見えるのではないでしょうか。

 学校は、教育を担うのではありません。学校教育を担っているからです。
「学校教育を正しく行い、成果をあげるように実行するにはどうしたらよいか」と問われれば、その問いに答えることが仕事ではありませんか。それ以上のことをどうしてできるでしょうか。
 それは学校がそのような立場に置かれていることから始まっています。

 そのような立場とはなんでしょうか。
 教育の主体が学校に置かれていることや、家庭が学校を補完する立場に置かれていることです。本来はすでにその教育観は見直されて数十年と経っています。しかしその見直しが、家庭に、学校現場に浸透するには3世代くらいの時間が必要だということでしょう。理念の通知より、実際の行動や態度がそれを示すからです。

 かくして、家庭教育は、どこにも引き受けられることなく、浮いたままになりました。家庭の教育力の低下というならば、それは家庭ひいては親・保護者の教育の関心の高さの前に、前提を問うことが重要ではないかと思うのです。「主体が誰であるのか」の前提が、国によって決定づけられ、疑問を持たれることがないままにきてしまった社会の意識は、今一度、問い直されるときではないでしょうか。

ホームスクーリングが認められている国の背景


 ホームスクーリングが認められている国の話題は、「なぜ、ホームスクーリングを選ぶのか」の観点と「ホームスクーリング制度」に焦点があてられることがしばしばあります。


なぜ、ホームスクーリングを選ぶのか
・学校でこどもが受けるさまざまな影響(銃、暴力、偏った思想教育、こどもの判断力に不釣り合いな誘惑の数々)を懸念する

ホームスクーリング制度
・国への登録と報告の義務
・学年、年齢に応じた適切な学習課程の履修
・義務履行に応じた補助(学習費用の援助)と保証(高等教育の進学ルートの確保)


 これらはホームスクーリングが原則禁止の各国においても議論される点のようです。しかし濃淡があります。前述のオランダの引用文にあるように教育と、社会のあり方が密接に結ばれているからです。なにを問題ととらえているかによりますし、その問題解決をどの点に置くかにもよるからです。
 社会情勢の揺れ幅が、「だれが、どこで、どのように、子を守るべきか」の判断と決定権の範囲を、拡大させ、縮小させもします。どこに重点を置かれた政策が支持を得るのか、の点ともまちがいなくつながっているでしょう。

 ホームスクールが登場する歴史背景には、その国の教育制度の崩壊が見られるといいます。教育制度が本当にこどもの為、ひいては市民の為になっている時代と国政のもとではホームスクールという形態が生じないのです。それはそうでしょう。本当にこどもを知り、理解し、その成長を手助けできる信頼のおける専門家がいたとしたら、誰しもそこに任せたいと思うでしょうし、敬意を払って、その実現に精いっぱいの協力をするでしょう。
 そういう意味ではホームスクールがあまりないことを市民に受け容れられている時代と国は良い傾向だと言えると思います。

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日本のホームスクーリング制度のゆくえ

教育の課題は学校と家庭だけにおさまらない

 子を持たない世帯であっても、子に関わることがない暮らしであっても、住んでいる地域社会に”こども”がいます。わたしたちは皆が、”こどもを取り巻く環境”を共有しているのです。
 それでも、こどもの教育が、自分たちの暮らしに深くかかわると認識するのはなかなか難しいことなのかもしれません。わが身を振り返ってもそう感じます。学生時代は”教育の意義”といった「教育の専門家がいかに社会に影響を与えることができるか」が重要であった気がしますし、社会人時代は、「いかに”効率的な””効果のある”教育方法を家庭に届けるか」が仕事でした。いわゆる教育がすなわち学校教育と同義であることが前提になっている世界で生きることは、少なくとも日本社会で生きる手段としては最も有効だからでしょう。
 しかし、前述してきたように「教育の課題」と考えられているあらゆる課題の要因は、学校と家庭だけにはおさまらず、ましてや文科省だけのことでもなく、教育支援の政策に目を向けても、まだ収まらないことになります。  では地域が加われば、課題解決に至るのでしょうか。まだ、足りません。まだ何かから制限を受けているような気がしてなりません。

日本のホームスクーリング制度を求める声・要点


 ホームスクーリングが合法かつ制度もある国の話題は、「日本もホームスクーリング制度を整えるべき」意見を後押しするために用意されることがあります。家庭の教育権を主張し、子の学習権を主張する声につながっていきます。


家庭の教育権を行使する根拠
〇普通教育を受ける義務(日本国憲法)
〇父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する(児童の権利条約および教育基本法)
・ひとりひとりの個性に適した教育を、各家庭で選び、受けることができる

家庭の教育権を主張する理由
〇権利教育
〇民主主義
・思想や世界観の形成途中に、学校で受け取る好ましくない(と家庭が判断する事柄の)影響を避ける

教育内容の具体的な提案
〇能力に応じた教育を受ける権利(児童の権利条約および日本国憲法)
・特別支援教育(スペシャルニーズ・エデュケーション)
・合理的配慮


 ただし、「どのように実現するか」については意見や方向性の違いが多々見られます。オルタナティブ法案のスタートから、教育機会確保法の実現までの間にある違いと同根のものです。

 「普通教育のうち、学校教育と自由教育を選ぶことができる」ことに合憲性がありますが、”普通教育”や”自由教育”そして”学校教育”も、その理解と解釈が一般に定まっていません。ホームスクーリング制度の実現の具体的な内容の提案は、さまざまな方向に飛び散っています。にも関わらず、そのすべてが認識されているとはいえません。やはり”大きな声”や世間的に”まっとうだ”と判断されるものが受け容れられる傾向にあります。そうでない”少数のなかの少数”の声は、昔も今も、細い一筋の流れを保っています。(わたしのように)。

学校教育の変革とは

 『学校教育の変革』を求めるのか、『公教育の変革』を求めるのか。」。そのどちらに観点を置いているのかを自覚する必要はあると思っています。どの立場に立って発言しているのかを明確にすることです。
 そうすることで、「学校の自由化とはなにか」のイメージがより具体的なものに近づいていくからです。

 例えば次の現象は、いずれも「公教育の構造」はそのままに「学校を自由に」と訴えてきた歴史的な結果です。


学校教育の多様化
・オルタナティブ教育のメソッドを採用(教員のフリースクール研修等)
・従来の学習課程の内容を緩和する公認の場の提供(学校内フリースクール、学習機会のアウトリーチ(家庭訪問による指導と学習の機会提供))
・「こどもの権利保障」を根拠とした校則の見直し

オルタナティブスクール、フリースクールの学校化
・出席扱いや評価につながる教科学習の対応
・教科学習と互換性のある内容の提供
・学校教育を受けたのと同程度と認められる活動と学校連携

家庭の学校化
・教科学習をおこなう家庭学習
・フリースクールに通っているのと同等の扱いを求める


 家庭・保護者からの強い要望を受けたカタチで、これらは実現します。
 実現した理由はなんでしょうか。
 それが、もっとも適切だからでしょうか。もっとも望ましいからでしょうか。子どもの最善の利益に適っているからでしょうか。

 誰にとって、そうなのでしょうか。 
 それを判断したのは、誰なのでしょうか。

学校主体の教育主義

 学校は、学校教育の存在意義を変えずに、現状維持を貫いたままです。そして自由教育の権利保障は隠されたままです。
 なぜなら、家庭教育の主体が宙ぶらりんのまま、教育の主体が学校にあるからです。そのことに気づかれないままだからです。

 「学校に登校しないこと」「学習指導要領の順番からはずれて、先取りすること」が子の学習権の保障と解釈されています。学校で受けるはずの授業内容を自宅やその他で受けることを期待する声も強くなってきました。それは確かに、普通教育に学校教育を選択した家庭の義務であり、権利です。
 しかし、果たしてそれは「選択した」のでしょうか。まず、その事実を見直すことが重要です。選択した覚えがないのであれば、「そういうものだから」と前提を疑わなかった姿勢があった可能性が高いかもしれません。
 「親の都合で旅行などを理由に学校を休ませないこと」が子の学習権を保障することであると解釈するのも同じことのように思います。

 家庭学習の内容に学校の授業で受けるはずの教科学習を期待する声も、授業を受けない選択肢が親の都合によって妨げられてはいけないとする声も、どちらも「教育は学校が担う」ものであるという認識に相違はないものと思われます。
 学校の教育を学校に登校する以外でも自由に受けることができるようにすることを期待することが、親の教育権と子の学習権の権利の要求であると主張するのです。

 ところで「…要求であると主張する」と、意図的に書きました。権利は主張するものでしょうか。行使するものではないでしょうか。なぜなら、この場合、議論にあがっている権利の内容は、すでに権利として保障されていると認められているからです。すでにある権利は行使するものです。それを妨げられるのであれば、その理由と根拠はなんでしょうか。
 「権利を主張する」とは、そこに上下関係を認めているように見えて仕方がありません。支配被支配関係を認めたうえで、許可承認を求めていることのように見えます。

 「学校が上」で「家庭が下」、「学校が権力者」で「家庭が弱者」、「学校が支配者」で「家庭が被支配者」という関係性を、無意識に肯定し、その状況を許し、受け容れている様がそこに存在しています。そのことに無自覚な点は、指摘されているでしょうか。

 そこにないものはなにか。「対等性」です。
「権利の主体」の認識であり、「権利を行使する」意識です。
「個人を尊重」し、「個人の尊厳を護る」ことです。

教育を受ける・学習する主体は誰か

 オルタナティブ教育とはなにか、と問います。

 下記図は、ホームスクーリング・センター木蔭で作成しました。日本の教育制度の現在(実線)に、自由教育の位置づけを想定(点線)たものです。
 

ホームスクーリング・センター木蔭 HP
まなびあい
教育制度の法整備

 正直に言いますと、〔自由教育=オルタナティブ教育〕の理解でよいのだろうか、と考えています。ましてやホームスクールは、公教育の既存の在り方に問いを投げかける存在も有するからです。しかし、制度整備の観点からはこの図を変える必要性を感じてはいません。

 オルタナティブ教育すなわち学校教育以外のさまざまな教育機会は、学校教育と同様かつ学校教育とは異なる内容でよいはずです。公教育としてその存在を保証されるべきだと考えるからです。

  • オルタナティブ教育の位置づけは、「学校と同等の」や「学校教育に相当する」は必須の条件ではない

 その根拠は、〔教育を受ける主体=学習する主体〕が、個人であるからです。付け加えれば〔教育する主体〕も個人であり、教育制度のなかにおける学校の自立性と、学校のなかにおける教員の自立性は守られる必要がありますし、自立性が約束されることによってのみ自律性が働きます。そのことは家庭に対しても同じことがいえます。家庭の自立が約束されることで、家庭の自律的な営みが育まれていくものと思われます。

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