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反省は しないでくださいね

 あなた転ぶでしょ?転ぶときあるよね。
 その時にね。タダで起きてあげなくてもいいのよ?

 転んだのは、まぁ、それはいいから。起きようとするとき、手につかんでいるものがあるでしょう?それを見るの。私はいつもそれを見てるの。ずっと同じ調子で歩いていたら、見えなかった景色なんだよね。
(あ、今、この景色を見てていいんだな)って思えるんですよ。
 人間って、本当に目に見えているものだけを(見えてる)(見てる)って勘違いしてるんだなぁって思うよね。しゃがんでみてごらんよ。転がってみてごらんよ。同じ場所に立ってるのにね。水族館なんかでちいさなこどもがしゃがんで上を向いて水槽を眺めてるんですよ。ちいさいのにまだしゃがむんですよ。真似してしゃがんでみても、その子の目線にまで全然届かなくて、これはもう転がならないと無理ですってくらい低い目線なんです。すごいでしょう?(わぁ、どんな風に見えてるんだろう?)って想像とドキドキがとまらないです。

 転んでから立ち上がろうとするときって、こどものころは元気だからなにもつかまらなくてもえいっと立ち上がってたかもしれないですよね。どうやって立ち上がっていたかしら。両手を地面につけて、手に力を入れてたような気がしますね。両の手のひらを支えにして立ち上がっていたような気がしますね。手についた土と服についた土を払っていました。
 転んだことに怒る子もいるかな。(この石が悪い!)なんてけっとばしたり?
 転んだことに落ち込む子もいるかな。(どうして転んだりしたんだろう?)って?
 それってたぶんきっと「転ぶ=わるいこと、いけないこと」ってなってるからなんだろうね。どうして、そんなふうに思うようになったんだろう。

 でも、転びますよね?
 絶対に転ばない道なんて無いですからね。1回から何回と転ぶ回数は違うけど0回って無いような気がします。もしあるとすれば、それは「そう見える」だけのことで想像でしか無いんでしょうね。絶対に転ばない道を歩いているような人の真似をしてみても、歩いているのは自分の道なので、やっぱり自分なりに転ぶもの。いいも悪いも無いわね。
 だから反省なんてしないでくださいね。面倒ですからね。同じ歩幅で、同じペースで歩いていたら、どこまで進んでいたかというのが予測できるので、その予測が「そこまで歩いていたはずなのに」となるのは頭がいいからです。「転ばなければ、今頃は」なんて考えたとしても、その位置まで飛んでいけるはずもなく、「飛び方がわかりません」と言ってそこに立ちすくんでしまうだけじゃないでしょうか。「転ばないようにもう一度やり直して」なんて「正しい歩き方」を完璧に追及しようとしたら、いつまでもうしろに下がっては歩き直しで、転んだ位置から先に進んでもないんですよね。そういう反省は、いらないです。むしろ反省の本来の意味を知ってほしいですね。

 【反省:省みて反する】
 
 いや、適当ですけれども。
 物事の解釈というのは、正解かどうかや絶対であるかどうかではなくて、そのとき自分にとって「こう考えるといいな」と思えるものでいいのです。だからいつだって変容する。変容することが成長でもあるわけです。変化していいんですよね。いつまでも同じでいなくてもいいんですね。
 「省みる」こと、振り返ることはそこに起きた事実に目を向ければいいということだけです。誰が悪いのかと感情を引き起こすようなことは不要で、ただただ事実に目を向ける。作業シートに手順を書き込むようにです。「こうすれば、こうなるのだな」という明確な因果関係は、予想を立てる素材になりますし、その素材をたくさん持てば持つほど、立てられる予想の数が増えていきます。実体験に基づいているわけですから立てた予測の確定率も上がります。つまり危機管理の能力が大幅に向上するわけです。
 その後はどうしますか。
 「どうするか?」です。「二度と転ばないように反省」なんていうことをしてしまうと、この「どうする?」の部分を考える機会が無いんですよね。誰だって転ぶんです。転んでいいんです。だから、(どうして転ぶことになったんだっけ?なにをしたら、これは転ぶんだろう?)って観察すると、(じゃあ、その後はどうするのがいいかな。)となるんですよね。
 転ぶのは悪いことじゃないですから、石を蹴り飛ばさなくてもいいですね。飛んでいった石が誰かにあたったらもっと困ります。どうして転んでしまったのかしらとしくしく落ち込まなくてもいいですね。だって誰だって転ぶんですから。もちろん落ち込んでいたいと思うならそれだっていいんですよ。落ち込んで落ち込んで底まで行きついたらあとは上がるだけっていうのも事実なので、一度見てみるといいですよね。自分の底辺って知っておくとなにかと安心です。その瞬間・時間にできること、見えること、知れることをどん欲につかんでいってほしい。それから、待っている人がいるかもしれないので、また歩くなり、走るなり、次のことすればいいです。待っている人は待っていられるから。待ってあげてるわけじゃないの。待てるから待ってるだけなの。待ち時間が長くなったとしたら、その時間は思いもよらない贈られた時間なわけで、うれしい発見が実はたくさんそこで出会えるんです。これも「転ぶ」と同じこと。もし、転んだ位置から見えた景色をもっと眺めていたいのなら、そこに転がったままでもしゃがんだままでも、とってもいいと思います。その景色をぜひ味わってください。だって、転んだその時がチャンスなんです。いつも見れない景色に出会ったチャンス。それをどう生かすかは自分次第なのね。

 ね。転ぶってわくわくするでしょう?
 転んだら、新しい景色に出会えるんだもの。
 それまで知らなかったことに気づくのだもの。
 
 (ここに石があるのって、あぶないな)って思って、次の誰かのために石をどかしてあげていくのもいいし、(ひとりで転ぶのつらいし、誰かひっぱっていってくれれば助かるのになぁ)って思ったら、自分がそうする人になってみようとしてみてもいい。それが必要だって知れたのだから。それを知るためにその時、その場所で転んだことがちょうどいい出来事なのだから。

 あの時、あのことが無ければ知らなかった。気づかなかった。
 そんなまなびのチャンスなんですね。
 自分だけの道ですから、他の誰かの道を歩こうとしなくていい。

 人生うまくできているもので、その人にとってちょうどいい転び方が運ばれてくるものなんですよね。これも《そう考えたほうが、らくちん》だからそう考えておく知恵のひとつです。

 転ぶことがずっとない時って、だから不意に不安になるのも人間らしい心です。(本当にうまくやれているのだろうか。)(なにか見落としていないだろうか。)(実はこのあと大きく転ぶなんてことが起こるんじゃないだろうか。)そんな不安が頭をよぎるとき、それを振りほどこうとすればするほどまとわりついてくるかもしれません。でもそれは、ほとんど取越し苦労に終わります。


 自分にちょうどいい転び方がやってくる。それは自分がそのとき気づくべきこと、知るべきことをそのカタチでしか知ることができないから。
 自ら気づいて、知ることができるのなら、わざわざそれをさせるために転ばせる必要は起きないから。

 自分のことは、実は自分がよく知っているんですね。どうすれば、自分は知りたいことを知り、気づきたいことに気づくのか。そうやって出会いを求めていて、無意識に人に惹かれ、なにかに惹かれ、呼ばれていくわけです。
 予定と計画だけでは成し得ない人生の妙。

 そうだね。
 自分を信じるってことかもしれません。

 

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