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教育や学びは 誰のもの?


『学力は感覚教育で飛躍的に伸びる~子どもの能力をひきだすために親ができる最高の教育』読後

 読み始めてみると、どこも興味深く、なおかつわかりやすい言葉で言い換えられていてとってもありがたい本でした!
 感覚統合の本ですから、当然といえば当然なのだけど、
いわゆる「困っている子」の手立てのアプローチの違いというか、本来の姿と言うか、違いを見た気がしました。

本日、facebookからあがってきた同日の過去記事”思い出”が、つぶやいたこととリンクしたタイムリーな内容でした。このnoteは、2019年4月10日  公開の記事から加筆・修正してお届けします。



【感覚教育】プロセス(覚書)


①感覚運動処理の発達になんらかの「穴」があることで、それを土台とするさまざまな行動に障害が起きる

 
②感覚運動処理の発達の、再構築を目的に、感覚統合をおこなう
(その方法は本人の運動プログラムにとどまらない)


③感覚統合プログラムと並行して、教室などで過ごすときに生じる「困り感」を具体的に支援する態勢を整える。

 ☆これは一時的なものである。


④感覚統合により「穴」が埋められ、感覚運動処理がスムーズになる。

 ☆この段階を経て、支援の必要がなくなる(ゴール)


 ①から④までの態勢が整っている背景にあるものは、以下のものであると思いました。

〇こどもをケアする

〇環境をうまく活用できるように工夫をこらす


依存的な”支援”要望のプロセス・イメージ


対して、私個人がみる日本の特別支援の印象はこういうものです。


①障害を受容する
・障害は改善することがない
・障害の変えることができない
・障害を個性として持ち続けるものとする


②障害があっても困らないように周囲が手助けする
・(常に)支援のある環境整備を要請する
・支援を継続的に受けられるように求める



 この背景にあるものは、以下のように感じています。

〇こどもを環境に適応させる
〇環境そのものを変える


「そのままでいい」とは、どういうことなのか?


 「障害」のとらえかたが根本的に異なっているのではないかと、思いました。

 こどもの個性を尊重するあまりに「そのままでいい。(働きかけを)なにもしないでいい」が極端に肯定されている風潮があることを感じます。
 これは歴史的にも「障害者差別」からうまれたアレルギー(過剰反応)の側面もあるかもしれませんね。

 しかし、適切な働きかけをせずにいることは、いわゆる”放置”しているのと同義で、迷子に差し伸べられるはずの手をあえて控えているようなものです。目印になるようなものもヒントもなにももらえず、そうしたくもないのに「きみには彷徨う自由がある。それを侵さないよ」と言われているような奇妙な心地がします。
 「自然体がいい」を「なにもしないでいい」と解釈するようなこととも地続きです。マイナスをマイナスのままにしておいても「それがあるがままの姿だから」という解釈のようですが、それは「大人に都合がよい」だけのことも少なからずあるような気がしてなりません。


 この裏には「こどもの人権」を低く見てきたこども観の歴史が大きく影響しているのではないでしょうか。なぜなら 感覚運動処理の「穴」ができるプロセスが、マルトリートメント(不適切な養育)にあると考えられるからです。

マルトリートメント(不適切な養育)って?


 マルトリートメントを、即座に虐待と同義であると解釈してはいけないと私は考えています。結果としてマルトリートメントになってしまった動機は、故意ではなく無知であること、知識がないことが根底にあると思うのです。

 現在の日本社会には子育てに関する社会教育が無い。つまり家庭教育に関する教養を得る機会がほぼ無いことが挙げられます。古くは井戸端会議、密着した人間関係において継承されてきたそれが、時代とともに薄れてきたにも関わらず、公共の福祉として、なんら対策がされてこなかったということが如実にあらわれているのではないでしょうか。

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