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日本のアンブレラスクーリング社会

【こどもを取り巻く環境】
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 テーマカテゴリを「こどもを取り巻く環境」とします。
 観点は「ホームスクール家庭に及ぼす環境について」です。


 アンブレラスクーリングについて、ホームスクーリング・センター木蔭では2015年に公開したページ『多様なホームスクールの在りかた』で次のように書いています。

ホームスクーリング・センター木蔭
まなびあい>多様なホームスクールの在りかた

アンブレラスクーリング
複数のホームスクール家庭が集まり、同一のカリキュラムを共有したり、短期のプログラムに共同あるいは個別に参加すること。

・公教育の正規の学校から提供されたスクーリングの場合は、参加することによって義務教育課程の履修となる制度のある国もある。
・日本では自由な教育(どんぐりクラブやフレネ教育など、学習指導要領とは異なった指導方法で展開される学習)を、ホームスクール家庭等でコミュニティを作り、共同で取組むケースが登場している。

 この記事で焦点をあてるテーマは「公教育の正規の学校から提供されたスクーリングの場合は、参加することによって義務教育課程の履修となる制度」について、です。日本でこれにあてはまるものはなんでしょうか。そして、ホームスクール家庭にとってどのような意味を持ち、どのような可能性があるでしょうか。それを考えます。


 ホームスクール家庭の目線から、コミュニティの意味を持つ”アンブレラスクーリング”についてはこちら↓で書きました。


なぜ「アンブレラ」というの?

 「傘下に入る」の意味の「傘下」です。
 
 ホームスクーリング生徒を対象にしたカリキュラムあるいはホームスクーリング生徒”も”参加できるプログラムを、日本で言うところの一条校にあたる公式な学校が用意します。その提供を受ける(用意されたプログラムに参加し、カリキュラムを受講する)ことをアンブレラスクーリングといい、”政府が認める学校の傘下にある”ことを指します。

 国際間で進学を希望するときには、”正式な学校に相当する学習を履修した”と証明する必要があるので、ホームスクーリングの学習が公式に認定される必要があるんですね。

 社会的信用を得る手段のひとつです。

社会的信用を得る手段として

 アンブレラスクーリングの名称で制度としてある国は米国以外にあるのかまでは確認していませんが、米国を例に挙げるとアンブレラスクーリングに期待することはなんでしょうか。

 日本でも想像が容易いことだと思いますが、当事者以外の人にとって「得体のしれないもの」をどのようにして安心を覚えるにはどうすればよいでしょうか。その手段が「公式な認定」「公認」というものです。
 「公式」のもっとも強い権威は、この場合は国(政府)、自治体、教育庁、教育委員会、福祉分野からの認定などです。これらが関連する認定の証明は、社会的に非常に信用を得ることができます。
 「社会的な信用を得ている」と思われる証明は、世間一般的に非常に重要な安心と信用を得ることができます。そうすることでネガティブな印象を払拭し、活動する当事者も理不尽な攻撃を避けることができるうえに、公共の場を利用しやすくなり、活動が広がります。

米国に見る「ホームスクールをはじめる」手続きと手段

 note『【ホームスクール研究】ホームスクールと制度:米国の歴史と法から日本の現状を見る』から引用します。


訴訟という手段を取る形式的手続き

 ホームスクールを行うことを目的として、もしそれが制約を受けるのであれば、(①)親の教育権に対する制約が適正であるかを争点とする。(②)その正当性が認められないのであれば、(③)制約は不適切であると判決が出る。(④)ゆえに親の教育権が回復する(権利を獲得する)、という手順を踏んだ手続き

私的教育一般は基本権として法の適正手続によって守られているが、ホームスクールという特定の在り方は守られているわけではない。連邦最高裁は今日までのところホームスクールを基本権として認めるかどうかに関わるような問題に直面していない。 この意味で、ホームスクールを行うことは全ての州で合法化されているけれども,未だ基本権として判例上認めらているわけではない。 したがって、ホームスクールは訴訟のなかではより制限的でない合理的な制約の有無を問うテストの対象としての地位に止まっている。

『ホームスクールと学校制度 ホームスクールが問いかけるもの』
- 秦明夫(2000年)
(3)主な訴訟-何が争われたか

アンブレラスクーリングに期待すること

 日本ではどうか、といいますと、日本の教育制度上、教育基本法や学校教育法そして日本国憲法の理念からしても、日本でホームスクールの形でこどもが過ごすことは可能です。普通教育を受ける環境を家庭で整える主体を家庭が引き受ける形を指します。これは普通教育を受ける環境をどのようにして整えるかという観点です。学校教育と学校施設を利用する以外の方法を家庭が選んで活用することができます。日本の教育制度、普通教育の概念から成立すると理解できるもので、すでに実践可能な事実です。不登校支援の拡充とは異なる流れとしてとらえていくと理解が深まります。

 前述の米国におけるホームスクールの位置付けに当てはめて考えると、次のように言い換えることができます。

・日本でホームスクールを実践することは、普通教育の在りかたのひとつとして認めることができる
・ホームスクールの実践について定めて法令は無い

 シンプルに考えるとこれだけのことなのですが、日本では公教育として国が保障する教育体系がたったひとつなところが根本的な課題です。学校教育で独占されている状態です。それで「学校教育以外」の教育については、どうしても「学校教育に準ずる」ことが期待されがちです。学校を卒業した後の社会生活とりわけ進学就職時に学歴として重視される社会システムがあるからです。社会につながる手続き、手段、ルートのとりかたとして主流なわけですから、確固たる社会モデルなわけです。いわゆる”標準的な”、”普通の”人生の歩みかたみたいな感じですね。これまでの時代においてはもっともバランスの取れた社会の在りかただったということでしょう。

 公的機関つまり学校側からすると、学校(一条校)の在籍生徒が通学をしない場合、アンブレラスクーリングに期待することは次のことが考えられます。

目的:学校の授業を受けているのと同等の学習機会を得る
方法①:授業の一部を開放し、ホームスクール生徒も通学生徒も一緒に受けられる授業を設定する.
方法②:ホームスクール生徒向けに組まれた授業を設定する.
目標:学習指導要領に則った学習課程を履修する

 このような制度になれば、学校側も在籍生徒に対する責任を果たすことが可能であるとみなされることも可能なのかもしれません。《学校に通学することには困難があるが、学校に通う生徒同様の学習機会を得ることができる環境とその評価を必要としている》家庭と生徒にとっても必要かつ期待の大きな制度となるでしょう。そして世間的にも「あたりまえ」のものとして受け入れられやすい内容となるでしょう。
 ホームスクーリング・カリキュラムがこの分野で進められていくのではないでしょうか。同時に、各学校における生徒のニーズにこたえて多様な学校教育の形を探るものにもなるでしょう。学校の授業設定は意外にも柔軟性を持っているものなのですが、これまでそれを大きく活用した事例はあまり認識されておらず(というより見過ごされていた。家庭目線からすれば複数の学校の特徴を比較する機会はなかなか無かっただろうから。)、また注目されてきませんでした(これもまた家庭目線でいえば、こどもが通う学校は校区で定められており、各学校の特徴をふまえて学校を選ぶことができる制度にはなっていないから)。ですが昨今では、不登校支援の潮流から多様な学校像を実現するモデルとして特に注目され始めており、これまでの常識とは異なる形態の学校運営の実現が可能なことは知られている通りです。

ホームスクール実践への影響

 ホームスクールのありかたは家庭それぞれです。それぞれの家庭哲学があり、家庭方針があります。ゆえに学校教育に準じた教育を、学校に通学するなど従来の方法以外で受ける機会を欲する家庭もあれば、そうでない家庭もあります。学校教育そのものに疑問を覚えるひとびとにとって、ホームスクールの実践は国の教育体制、国による教育および教育観の「あたりまえ」を問い直すものですから、アンスクーリングな環境にその未来と可能性を見出すことでしょう。また国の教育内容とは異なるカリキュラムとプログラムを採用した教育環境を整えたいと考える英才教育あるいは個別の発達に応じた教育を望むホームスクーリング実践も同様です。
 ホームスクール家庭やそのほかのオルタナティブ教育を実践している家庭が学校教育を一時的に活用する考えと、スクールアットホーム(学校教育を在宅学習で実現する)のかたちで学校教育を受けている家庭では共通する関心事や姿勢も多くありますが、重視していることなどの教育観が異なる部分もおおいにあることでしょう。
 片方にとっての好ましい状況が、片方にとっては好ましくない状況を生む可能性があります。アンブレラスクーリングへの期待が制度整備の前提に全く重なった時、多様なホームスクールの実践の在りかたに影響することはなんでしょうか。

多数派の価値観の影に

 標準的な社会モデルに必ずしものらなければいけないという絶対的制限は無いのですが、やはり主流である認識は持たれています。それ以外の個性的な流れを確立していくためにはそれなりの知恵や工夫が必要なのでしょう。ひとつの価値観に多数派が生まれることによって、少数派は少なからず影響を受けます。そして少数派とは、存在することをわすれられがちです。ゆえに少数派の価値観や意見は求められる機会もおのずと少ないものとなります。少数派だからといって「ないもの」として扱われてよい理由はありません。《多数派の影には、多数の少数派が必ず存在する》ことはいつも念頭に置いています。どれだけの数の少数派を想像することができるか。それはとても大切で広い視野を持ち続けることだと思います。常識を疑うことを忘れないという意味でもとても重要です。

〔社会モデル=標準〕の今

 標準的な社会モデルにのろうとすると、かならずといってよいほど「時間に追われる」ことになる気がします。《年齢=学年》の概念が世間にありますから、それに合致しようとすると追いつかないといけないわけです。

 《年齢=学年》の概念にあてはまらない多様性になじみがありません。そこで生じる(あれ?)な感覚をすり合わせることがどこかで生じます。一致させる手段でいちばん簡単なのは《年齢=学年》に乗ってしまうことなんですね。いったんはずれることがあってもいずれは元に戻る【復帰】の発想です。
 ”はずれていた期間は問題ではなくなるようにリセットする”ためのなにかを必要とします。「不登校でも大丈夫」の中にはそういう意味で使われていることもあるのかなと感じます。
 結果、不登校支援策の枠に内包されるスタイルを手段として使います。次のような「学校教育制度」にあてはめることができるように講じるよう公的機関に求めます。

・出席扱いに認められる
・卒業を認められる
・成績を評価される
・学歴に認められる

 これを手段として活用するのか、これに社会的な自立を獲得するための必須と思って従うようにがんばる・がんばらせるのか。その違いは生き方として大きく異なる気がします。なにより安心感とか、充実感という気持ちの持ちようが違ってくると想像します。実際に「自分の目標を実現するために必要な過程」として取り組むのと、「そうしなければならない」ハードルと思ってこなそうとするのとではその姿勢の違いはあきらかです。
 「たのしい」とか「わくわくする」とか、「ここはもっとがんばれる」とか、自律心と自制心が成長するのはどちらでしょうか。

 もちろんその生き方はいつでも選ぶことができます。そのどちらの生き方も経験することだってできます。そして、いずれも人生の歩み方としていろんな気づきを与えてくれますし、生き方のきっかけをもたらしてくれるでしょう。誰もがどんなきっかけで、どんな出逢いで、その生き方を変えるかしれません。未来の可能性はまさしく誰も正解を知りません。

 「ホームスクールを実践する」ことと、「社会モデルの主流にのる手段を活用する」ことは区別してとらえることで、課題は明確になってきます。
 「ホームスクールを実践する」ために必要がある社会モデルを想像することができるでしょう。「ホームスクールはどうあるべきか」ではなく、多様な成長の過程において、こどもを取り巻く環境をどれだけ寛容に、柔軟に、整えていけるだろうかの観点をひろげていけたならば、おのずとその周辺のあらゆる課題の可能性をも共にひきあげていってくれるでしょう。

ホームスクールを実践する社会モデル

 ホームスクールおよびオルタナティブ教育の実践の先には、やはりオルタナティブな社会に生きていることがもっとも自然であたりまえなように思います。けれどもいたるところで学校教育がはぐくんだ伝統的な社会モデルが標準化していますから、その隔たりを埋めるのはひとえに人と人との関係をどのように結んでいくのかが命題となる気がしています。
 より多様性を受容できる態度をもてる人間性、寛容さ、曖昧さをうけいれることができる柔軟性などなどそのコミュニケーション能力を互いに成長するゆとりがほしくなります。でも「時間に追われた」社会モデルのなかではなかなかむずかしいと感じることも多いかもしれません。

オルタナティブな社会

 「オルタナティブな社会」と記しましたが、これはその次におとずれるインクルーシブ社会を実現するために必要な過程といえるでしょう。共生社会というそうですが、どんなイメージがあるでしょうか。

 ”オルタナティブ”の言葉は、「新しい」「既存のものとは異なる」そして「第3の選択」「代替」といった意味で使われることが多いようです。かつてオルタナティブ教育の勉強会で、ドイツからいらしていた先生のお話を聞く機会がありました。そのときのひとことが非常に印象に残っています。

シュタイナーもモンテーソーリも、登場した当時は「新しい」教育だったんだ。それをオルタナティブ教育と呼んでいる。

日本ではまだ「オルタナティブ」の意味がよく理解されていないよ。
「オルタナティブとはなにか」から始めるといい

 その時のわたしももちろん「オルタナティブ教育」について深く理解しているわけでもなく、なんとなくのイメージでしかありませんでした。ただ「代替」の意味で使われることが増えたころにはとても違和感を覚えました。「第三の選択」にも若干の違和感を覚えますが、どんな理由でと問われるとまだ言語化できていません。
 木蔭ホームページはオルタナティブスクールとフリースクールを区別して記述しています。その基準は「体系的な」ものかどうか、です。「今現在、確立された教育体系として成立し、その指導内容や方法を研修などを通してスタッフが共通認識をもつことを重視している」側面を大切な基準としてとらえました。
 オルタナティブが「新しい」の意味を持つということ、私はその点にもっとも衝撃を受けたのでした。だからこそ、今もなお生まれつつあるいくつもの「あたらしい」教育体系を眺めるとき、その先にある未来にどのようなビジョンを持っているのか、その教育体系を成立させている前提はなにか、その根拠をどこに、持っているのかなどを観点にする癖がつきました。「果たしてそれは100年後の未来に”オルタナティブ教育”の名で存在しているだろうか」という観点ですね。
 すると、今現在の世間、社会のニーズに応えることを最重要ととらえているのか、あるいは、未来の日本社会に実現してほしい種をまこうとしているのか。そんなことがもしかしたら見えるようになるかもしれない。そう考えています。
 
 オルタナティブ教育の環境を整えるひとびと、その環境で育つ人たち。そんな彼らはどんな社会が未来にあれば、心が満ち足りたなかで生きていけるでしょうか。どんな未来がえがけるのでしょうか。そしてなにより。そこにつながる〔今〕は、どんな種がまかれようとしているのでしょうか。さらにいえば、その成長をさまたげる要因を見つけ出す目をもつこともやはり大切です。その要因を消すことは難しくても、距離を置く、影響を受けないようにするなどの策を考えて用意するためです。安心して生きるためです。

 ”オルタナティブ社会”は、ともすればマイノリティを保護する意味でとらえられる側面がある気がします。マイノリティをいちはやく発見することが流行りとなり、社会的弱者と位置付けることで社会から注目を置かれるようになり、さらにその支援体制を整えることを善意のありかたとして世間に受容されていく。そんな流れが目に留まります。
 それはきっと第1段階なのだろうと思うのです。

 多様性は今更生まれたものでは決してなく、どの時代にも存在してきたものです。その認識を共通認識におくのはもちろんのこと、そもそも多数派と少数派に分かつものでもないということも頭に置いておきたいし、どちらが社会の「正解」に置かれるべきという考えも無くていいだろうとも。
 それならば。
 これまでの在りかたに照らし合わせて「それは違う」と判断するような行動もなくなっていけばいいんじゃないかな。そんなことを思いました。

 まずは受け入れてみる

 そこからはじまる価値観の共有は、なんだかとても素敵な気がします。

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