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『暇』とは…。それはとてもステキなもの

 シンクロニシティといいましょうか。どういうわけか、もう数えるくらいには『暇』というキーワードの文章をあちらこちら(noteに限らず)で目にしています。

 これは・・・「『暇』について書きましょう!」という啓示では?

 笑

 そういうわけで、私の、そして我が家の『暇』論のスタートです。


解釈 『暇』ってどういう意味かな

 ある日、帰宅すると13歳次女さんが開口一番にこう言いました。

「やることがあるって、やることがわかるって、いいね!」

 満面の笑顔でしたので、とても印象に残っています。

 その日までの数日の間、彼女は「やること」が思い浮かばないでいる様子でした。それが、その日は、1日中たっぷりと「やること」があって「やりたい」ことに夢中になっていたようなのです。その充実感が、開口一番の報告になって表れたのでしょう。
 
 じゃあ、彼女にとって「やりたいことがなにもないとき」が『暇』なのかなぁ?って思って、さきほど訊ねてみました。


なにもすることが無い時・・・かしら?

 そんな予想をしていたのだけれど、期待通りに外れましたよ。


 彼女が「暇だなぁ」と口にする時、それは。

ーやることはあるけれども、
それは やりたいことではない とき

なんだそう。
(へぇ!そうなんだ?)と、驚きです。

 じわじわときますね、これって。

(ん? じゃあ・・・その「やること」はするのかな?しないのかな?)

 それも訊いてみました。

例えば、台所の食器洗いを頼まれたとき、
それは今、「できる」けれども「やりたくない」というとき。
食器洗いをすることはできるので、やるよ。でも、
食器洗いは「している」ので、暇ではないはずなんだけど、気持ちは「暇だなぁ」ってなってる。

 お、おぉぉぉぉ!そうなんだ!(感動)。

 「暇を持て余す」という日本語表現がありますが、それは『暇』を《時間》と捉えているのかなと思います。それとはまた違う世界観のような気がしてきましたね。『暇』とは、時間ではなく、行動ではなく、”気持ち”がどこに在るかを意味するようではありませんか。

 言語表現は、年代により顕著に変化していきます。地域による変化も著しく、若いひとほどその様変わり様は非常に大きいものだと、私自身の経験から実感しています。同じ「単語」でもニュアンスは違うし、「言い回し」も違ってくるのですよね。
 地方に転居してから後、都会の友人に再会した時、その「言葉(意味・解釈)」「表現(ニュアンス)」のあまりのわからなさぶりに驚いたことがあります。それはその地域の流行(流行り)に、とても影響を受けるものなんだなとも感じました。日本語って本当に多様です。

【追記】長女さんとこんな話をしました。


暇を味わう

 さて次に、私にとって『暇』とは。これを語ります。


 それまで「やりたくもないことをする時」や「やらねばならないことに追われている時」という経験があった分、「なにもしないでよい時間」がいわゆる『暇』を感じる時です。『暇』は「時間」の意味で解釈しています。
 そして『暇な時間』は、私にとって最高に幸福感を味わう時間でもあります。

 だって「やらなければならないこと」がちっとも”無い”時間が、私には『暇』だと感じるのです。これはうれしいです。とてもありがたいです。だって「なにもしなくていい」んですよ。嬉しくて仕方がありません。

暇だなぁ。なにをしようかなぁ

・・・などど考えながらも、なにもしなくていいんですよ。
 ほらもう最高。

 そんな時、私が感じているのは、静かに「時間が過ぎていく」ことだけなのです。


時間が過ぎていく時間に時間の感覚はない

 不思議なことに、『時間が過ぎていく時間』は、『時間』が存在しないのですよね。木の葉が風に吹かれ、雲が流れ、太陽が照って、あるときは波がひいてはおとずれる景色。鳥が飛び、鳴き声がして、確かに時間は流れているのに。なんだか、そう「普遍的」な、「永続的」な、そんな景色にたっぷりとひたることができる時間。

 それを、とてもしあわせに感じます。

 それを感じている”自分”を感じている…ということが幸福感の溢れる源泉なのでしょうね。


余暇=スコーレ

 こどもたちが暇そうにしていると…つまり、私から見て「暇そうにしているなぁ」という様子が目に見えると、私はいつでもほっこりするわけです。

(よかったねぇ。暇なんだねぇ。
 いつでも、やりたいことを 
 いますぐに 始められるんだねぇ)

だもんで、こどもたちが
「暇だよ!おかあさん!何とかしてよ~」などと言おうものなら、私はいつでもこう返していました。

「それはいいねぇ。よかったねぇ~」

 すると、またこどもらはひとりまた「暇な時間」にかえっていくのです。それがまたよいのです。


 こどもが暇そうにしているとき、それは誰からも、なにも期待も背負わないでいる姿です。自分が何をするのか、全部、自分で決めていいのです。まるっとすべて本人のものなのです。

 こんなにステキなことがあるかしら。


 ひとつ、豆知識をご紹介。

 スコーレ(学校)の語源、それは「余暇」だと知っていますか。私はそのことを知ったとき、とても大きくうなづきました。「まさにそうだ」と思ったのです。
 学問に触れることが「贅沢だ」という意味の「余暇を持っている人の為の場」ということではありません。きっとそれは「学ぶ」真っ最中の姿とは、まさに「余暇」にあるからこそ生まれ、自由で、誰にも縛られないからこそ存在できるものだと、そう感じたからです。

「暇」という字は「日」へんの隣に「叚(カ)」という字を書きます。
「叚(カ)」は、「霞」という字の下半分と同じ。

独自の視点で漢字のなりたちをひもといた白川静博士は、この「叚」という文字が岩石を切り取ろうとする様子を表し、磨きをかける前の原石のようなものを示していると読み解きます。

それは「未知数で、大きなもの」。そこから、制約のない茫洋とした時間、「暇」を意味する漢字になったといいます。

学校を意味する英語の「スクール(School)」。
その語源はギリシャ語で「暇」を意味する「スコレー(schole)」だと言われています。
古代ギリシャの一般市民は、人を雇って基本的な労働を任せていました。そして、そのおかげでできた暇な時間を、自由な思索や討論にあてるのです。

彼らにとって「暇」こそが、自分が自分であるために必要な考え方を確立する最も大切な時間。
古代ギリシャの人々は、ものごとの本質をとらえ、問題解決に生かそうとする学問としての哲学を、「暇」な時間から生みだしたのです。

ではここで、もう一度「暇」という字を感じてみてください。
かつて、「暇であること」は子どもたちの特権でした。
それなのに、現代社会を生きる子どもたちは毎日忙しそう。放課後も習い事やら受験塾やら、予定がいっぱいです。

現役当時「世界で最も貧しい国の大統領」と呼ばれた、元・ウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカ。
彼は、子どもをせかさないでほしい、と大人たちに訴えかけます。

「子どもは遊んで、遊んで、遊んで、幸せにならないといけない」し、「ゆっくりと育つべき」である。

そして、自らの哲学をもつ大人になるための極意を、こう、語っています。「子どものときをたっぷり生きてこそ、知恵と人格のある大人になれるんだ」

今、子どもたちに与えるべきもの。それは、心の中の原石に磨きをかけるための「暇」な時間かもしれません。

 以上、リンク記事本文より一部を抜粋しました。とてもすてきなお話ですね。どうもありがとうございます。


「暇」は作らないと、できないらしい

 ところで大人からすると「暇」って意図的に作ろうとしないとなかなか手に入れられない類のものらしいですよね。やはりやるべきこと(仕事)があるからでしょうか。この場合の「暇」は、レジャーの意味合いです。(そういえばレジャーって、「余暇」と訳しますね。)

 【時間を作る】

 それは偶然にできることもあります。そんなときは「予想外」のことであり、「思いも変えず」降って湧いた事態だったりします。そんなちょっとしたプレゼントについついまいあがって気づけば「なにもせず」に終わってしまって惜しい想いをしてしまうこともままあります。

 「なにもせず」って、なにもしていないわけではないんですけどね。

 どうも「なにかをしている」と結論付けるには、なにか「成果を出した結果」がないと許されないという概念が固定化されているみたいで、なかなか厄介ですね。

 でもね。

「なにもしていない」ながらに、人間って…なにもしないではいられないイキモノなんだなぁ。ただ、それにあまりにも評価がつきまとう人生だったために、見えなくなっているもの、感じられなくなっているものがたくさんあるんですね、きっと。

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